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ベタベタと触られている。
いや、感触自体はないのだから、【触られている気がする】というのが正しいのだろうけど。兎に角、やたらベタベタと、馴れ馴れしく私に触れようとする手がある。
そう、ヤツの――ノゾムの手だ。
従順な犬か、人懐っこい猫のように、私にすり寄ってくる。
……鬱陶しい!
苛立ちが募るけれど、生憎今は授業中。そして、ヤツの姿が見えるのは、私だけなのだ。ここで苛立ちのままに大声を出したり、追い払ったりすれば、おかしな奴のレッテルを貼られるのは、私の方。理不尽さを感じてしまうけれど、幽霊相手に癇癪を起してもどうしようもないだろう。
落ち着け、私……ビークール……。そう、私はクールな女……。
「あはは、明日香ちゃんがクールな女の子って、少し無理があるけれどね」
おかしそうに笑いながら、私に後ろから抱きついてくるノゾムに、苛立ちが増した気がするが、そんなことは言っていられないのだ。
こんなヤツ、無視だ、無視。犬にじゃれつかれていると思えばいい。
ノゾムを無視することに決めて、私は一人、今朝の回想を始めた。
あの後――ノゾムの伸ばした手が空を切った後。ヤツは異様なほど落ち込んだ。仮にも幽霊なのだから、私に触れることが出来ないだなんて、わかりそうなものだけど。兎に角、落ち込んだヤツは、急にハッとして、私に登校を促した。幽霊の癖に、真面目に登校を促すノゾムにおかしくなりながらも、確かに時間は差し迫っていたので、私は速足で歩き始めた。
速足で歩く私の隣で、ふよふよと浮きながら、ノゾムは「どうして急に僕が見えるようになったんだろうね」と不思議そうに首を傾げた。
確かにそうだ。
私には霊感はない。……ないと思って生きてきた。それが、どうして急にこんな――。
考え込む私に反して、ノゾムは能天気に「愛の力かなあ」などと宣っている。その様子を見ていると、自分が真面目に理由を考えているのが何だかバカバカしくなってきてしまった。そこで、私は一旦思考を放り投げて、学校へと急ぐことにしたのだった。
朝の回想を終え、改めて自分がノゾムを見ることが出来るようになった理由に思考を巡らせる。
何故急に霊を見ることが出来るようになってしまったのだろうか?
昨日までと、今日とで何が違っただろうか? ……そういえば、ノゾムと遭遇したショックで記憶から薄れていたけれど、今朝、車に轢かれかけた。もしかすると、生命の危機に直面したことで、新たな力に目覚めたのかもしれない。
そう思いながら、チラリとノゾムの表情を盗み見る。嬉しそうに私に頬擦りしている姿は大型犬もかくや、といった感じで、鬱陶しいことこの上ないのだが、一応は私の恩人、なのだということを思い出したのだ。
私は小さく首を振ってノゾムから少し距離を取ると、授業に集中するため、意識を黒板の方へ向けなおした。
旧校舎へ続く渡り廊下は、現在通行禁止にされている。
新校舎へ移る際に、荷物をあれこれとこの渡り廊下に置きっぱなしにして、未だ片付けるだけの時間が取れていないらしい。足の踏み場がない程ごちゃごちゃとした場ではあるが、自分がスカートであることや、体勢等に考慮しなければ、物陰に身を潜ませることが出来た。あちらこちらで数多の人が会話を交わしている学校で、めったに人の近寄らないこの場所は、他人に聞かれたくない会話をしようとする場としては、ある意味穴場だったのだ。
私は、しんと静まり返った渡り廊下の、荷物や棚の間を縫うようにして歩いて行き、古い机の上に腰を下ろして、後ろをついてきたノゾムに向き合う。
「取り敢えず、ルールを決めよう」
「ルール?」
ノゾムがきょとんとした顔で私を見つめる。それに軽く頷いて見せながら、私は右手の人差し指を立てた。
「正直、アンタが急に見えるようになった理由についても、何とも言えないし、アンタが見えてしまうというこの状況に対しても、まだ頭の処理が出来てないの」
「あはは、所謂パニック状態ってやつだね」
「爽やかに笑ってるんじゃないよ……。でも、私が、アンタのことが見えるようになってしまった今。アンタがこれまでどう過ごしていたにしろ、私はその影響を受けてしまう状況になってしまったワケ。お分かり?」
「家の見えない場所に虫が出たとしても通常の生活が送れるけれど、目にしてしまった後は処分しないと気になってしょうがないってことだね!」
「……まあ、概ね合ってるんだけど、それだとアンタが虫ってことになるよ。それでいいワケ?」
「あはは、まあ、似たようなものでしょう」
「変なヤツ。まあ、つまりは、私が日常生活を送るにあたって不都合がないように、アンタにいくつかルールを課したいの」
「うん、いいよ」
即答され、思わず言葉に詰まる。
「あのさ、私結構酷いこと言ってる自覚があるんだけど。私の言ってること、どういうことか分かってる?」
ニコニコと嬉しそうに笑う顔がなんだか気に食わなくて、私はノゾムの目を覗き込むようにして身を乗り出した。腰かけた机がギイと嫌な音を立てたけれど、そんなことは気にしていられなかった。
ノゾムはそんな私の行動に、不思議そうに首を傾げて、それから、花が咲くみたいに綺麗に笑った。
「わかってるよ。つまり、【明日香ちゃんの勝手な都合で】僕の行動に制限を課したい。僕が昨日までと同じように過ごすと【明日香ちゃんが困るから】って。そういうことでしょう」
「っ……」
そう。そうなのだ。
結局私が言っているのはそういうことなのだ。
私が見えるようになってしまった、という自分の都合により、ノゾムの行動を制限しようとしている。ノゾムが私を【少し利己的】と表現したのは、こういう部分だろう。
「何で分かってるのに、いいよだなんて即答できるの?」
自分自身の良くないと理解している部分。それを理解した上で、変われないと思っている、醜い箇所を晒され、私は喘ぐように呟く。
けれどノゾムは、天気の話でもするみたいに、言った。まるで、今日は晴れですねって、本当に見たままの事実を話すみたいな、なんでもない様子で、言ったのだ。
「君のことが、好きだからだよ」
ガツン、と。巨大なハンマーで頭を殴られたんじゃないかってくらいの衝撃が全身に走った。羽のように軽いノゾムの声だったけれど、その目がどこまでも真剣なのがわかってしまったから。
私はその時初めて、彼は本心からその言葉を言っているのかもしれない、と思った。
私はノゾムから目をそらして、少しでも尊大に見えるように胸を張る。
「あ、そ。いい心がけじゃん。じゃあ、改めてルールを決めよう」
「うん」
「まず、授業中は大人しくしていること」
「ええ。僕、今でも十分大人しくしているじゃないか」
「どの口が……。散々じゃれついて来てたでしょ」
「だって、別に暴れまわったり、大声を出して明日香ちゃんを邪魔したりなんかしていないし。明日香ちゃんの傍で、大人しくしていたでしょう」
「だから、それが鬱陶しいワケ」
「そんなあ……」
「触れてないのに、触られているような気がして気持ち悪いの」
「触れてないよ……」
「だから、気がするの」
この世の終わりみたいにベソをかきだしたノゾムが、また私に縋り付いてくる。実際に触られているわけではないのに、視覚的に暑苦しくて、じっとりと汗が浮かんだ。たまらず引きはがそうと腕を伸ばすけれど、指先は何にも触れずに、ただ前に伸ばされただけだった。
「ああ、もう! 暑苦しい!」
「僕、幽霊だから、どちらかというと涼しくない?」
「視覚的に暑苦しい!」
「それはどうしようもないよ」
「だから、やめてって言ってるの」
「そんなあ。明日香ちゃんは、僕に死ねって言うの?」
「さっきまで潔くいいよって言ってたアンタはどこに行ったワケ? というか、アンタもう死んでるでしょ!」
泣き真似までしながら首元にかじりついてくるノゾムに、無駄と知りながら両手を伸ばす。勿論私の両手は、夏特有のじっとりとした空気に包まれるばかりだ。
「ああもう、分かった! 授業中以外は引っ付いてきても文句は言わない……いや、言っても我慢するから。だから、授業中はやめて。私、これでも学生だから、勉強しなくちゃいけないんだよ」
「うう……そうだよね、学生の本文は勉強、だもんね」
教師みたいなことを呟きながら、ノゾムはやっと私から離れた。やや不満そうな表情をしているけれど、ちゃっかり私から最大限の譲歩を引き出しているのだから、油断ならない。
私は、汗をかいてしまったブラウスの中に風を送り込もうと、パタパタと胸元を引っ張る。
大体、夏だっていうのにこうベタベタするのはどういうつもりなんだろうか。もうすぐ夏休みだし、気温は夏本番、といった感じだ。
「アンタは暑くないワケ?」
チラリとノゾムを見上げながら尋ねると、ケラケラと笑いながら「僕、幽霊だよ」とおかしそうに返されてしまった。
その小馬鹿にした様子にイラっとしたが、生憎先ほどのやり取りで体力を消耗してしまっていた私は、「あっそ」と呟くだけでその場を収めた。
「あとは……えー……そう、人がいる時。人がいる時は、私に話しかけないでね」
「なんとなくそう言われるんじゃないかと思っていたよ。うん、頑張るね」
「頑張る?」
ノゾムの物言いに引っかかって、つい尋ね返す。意識していなかったけど、睨みつけるような眼差しになってしまっていたらしく、ノゾムは困った顔をして頬をかいた。
「それが……僕、今までも返事がないことを前提に、明日香ちゃんに話しかけてきたから、癖がついてしまっているんだ。だから、正直に言うと、あまり自信がないんだよね」
「……そういえば、今朝も普通に声かけてきてたよね」
「うん」
頷くノゾムを見ながら、今朝の事を思い出す。そうだった。彼は、あわてて私に謝罪をしてきたのだ。ごく自然に。だから私は、ノゾムを幽霊だと思わなかったのだから。
……あれ? 今朝、私の背中を押したのは、ノゾムだったワケだよね。じゃあ、どうしてノゾムは私に触れないんだろう。今朝は、あの瞬間は、少なくとも触れていたはずなのに。
疑問がわくけれど、ノゾムに言っても、どうせまた愛の力だとかなんとか、適当なことを言いだすだけな気がして、私はそのことを忘れることにした。考えたって、わからないことはわからないのだ。
「だからね、返事が出来ない状態で話かけてしまったら、うっかりミスだから。無視して欲しいんだ」
ノゾムの言葉に、私は意識を戻された。
「……まあ、そうなると思うけど。アンタの言葉で、人の言葉がかき消されたりしたら、どうするの?」
「あ、そっか。そういう場合は……えーと。出来るだけ、周囲の会話も聞いておくようにして、僕が教えるよ! それでもダメだったら……」
「ダメだったら?」
「どうしようね?」
「はあ……」
前途多難な予感を前に、私は大きくため息をついた。
なんかもう、疲れたな……。細かいことは、おいおい決めることにしよう。
「じゃあ、まあ、そんな感じで……。あ、あと一つだけ、兎に角決めておきたいんだけど。アンタ、私からどれくらい離れられるの?」
「それって、距離?」
「そう。アンタ、守護霊だって言うんなら、私からあんまり離れられなかったりするんじゃない?」
「うーん。一度試してみたんだけれど、明日香ちゃんの家の、一階と二階くらいの距離だったら余裕だったよ。どうして?」
「なるほど、じゃあ安心だわ。私のお風呂、トイレ時には絶対に近寄らず距離を取ること。いい?」
「あー……なるほど。うん、わかったよ」
「物分かりが良くて安心した。……ちなみに、今までってどうしてたの?」
「聞きたい?」
「いや、いい。私は何も見てないし、知らない」
「あはは、そんなに警戒しなくても。今までも、別に覗いたりしていないよ。僕、そういう趣味ないから」
「あ、そ。良かった。アンタがストーカーでも、変態ではなくて」
「だから、守護霊だってば」
「どっちでもいいってば」
ノゾムと軽口を叩き合いながらも、私は内心首を傾げていた。
今朝、ノゾムという幽霊に出会って、こうして今現在普通に会話しているという状況が今更になっておかしいような気がしてきたのだ。
でも、ノゾムと話していると、何だか懐かしいような気持ちになる……ノゾムの存在を受け入れるのが早かったのも、恐らくそれが原因だろうし。
「明日香ちゃん? チャイム鳴ったよ。数学は出ないとまずいんじゃなかったっけ?」
思考を遮るようにノゾムに呼ばれた私は、その言葉に慌てて教室へと足を向けた。
まあでも、流石にノゾムみたいな目立つ顔、一度見たら忘れないだろうし、どこかで見た芸能人にでも似ているのかもしれない。なんといったって、顔はいいのだ。
「アンタ、アラーム機能としては中々優秀じゃん」
「えへへ」
私の嫌味に、ノゾムが嬉しそうに笑った。ノゾムはもしかすると、馬鹿なのかもしれない。
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