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「おはよう、明日香ちゃん」  目が覚めると、やたらと顔の造形が良い男が、キラキラとしたエフェクトを振りまきながら微笑んでいた。私は、反射的にその頬を平手で張ろうとして、その手が空を切った感覚に、目を覚ました。  ああ、そうだった……。  まだ眠気を訴えている目を軽く擦りながら、私は昨日のことを思い出していた。つまりは、そう。猫を助けて、車に轢かれそうになって、ノゾム――この無駄に輝かしい顔面を持った、犬みたいな青年に出会ったことを、思い返していたのだ。  記憶の整理がついて、一つ、息を吐き出す。そんな私を知ってか知らずか、ノゾムは朝の陽の光を浴びて、茶色がかった髪に天使の輪を作り出しながら、笑っていた。 「明日香ちゃん、朝ご飯だって」 「あ……そ。着替えるから、出てって」 「はあい」  犬猫を追い払うようにシッシと手を振る私に、良い子の返事をすると、ノゾムは部屋のドアをすう、と通り抜けて消えた。 「……幽霊っぽい」  私はそんな様子を不思議な心地で眺めた後、部屋着を脱いで、ハンガーに掛けてあった制服に手を伸ばす。ちなみに、私はパジャマより部屋着派だ。  ブラウスの袖に手を通して、背中の中ほどまで伸びた髪をばさりと引き抜く。随分と髪が伸びてきてしまった。少し、鬱陶しい。近々切りに行った方が良いかもしれない。  私の通う時透学園は、男女ともネクタイ着用だ。進学先を選ぶ際に、ネクタイを締めたいという理由が半分ほどあってこの学校を選んだことは、恐らく母にもバレているだろう。水色と白のストライプに、ワンポイントで緑の線が混ざっているネクタイは、好きな色ばかりということもあり、大変気に入っている。  スカートは、深い藍色と濃い青のチェックで、少し地味だ。けれど、ブラウスも水色がかった色合いをしている為、全体が青で統一されていて、バランスが良い。ブレザーは至って普通の、黒いブレザーだが、全体で見ると、この辺の高校の中では一番可愛いと専ら評判なのも頷ける。  まあ、私は規定通りスカートを膝丈にしているから、もっさい印象の方が強いだろうけど。ギャルっぽい子が、太ももの辺りまで短くしたスカートと、規定違反の白いカーディガンなんかを着ている姿を見ると、「あ、やっぱりこの制服可愛いんだ」なんて思うのだから、やっぱり着こなしって大事なんだろう。  とりとめのないことを考えながら、短パンを履いて、スカートのホックを留める。ブレザーは、家を出る前に羽織れば良いから、自分の左手に引っ掛けて、リュックと携帯電話、携帯音楽プレイヤー、それからリップクリームを持って部屋を出た。  部屋を出てすぐ右手の上空に漂っていたノゾムは、嬉しそうに私の首元にかじりつく。 「やっぱり明日香ちゃん、高校の制服、似合うね。中学校の制服もよく似合っていたけれど、明日香ちゃん、顔立ちはクールな印象があるから、ネクタイがよく似合うよね」 「……私の中学での制服は、ブレザーだったでしょうか? セーラーだったでしょうか?」 「ブレザーだったよね。リボンやスカートが赤ぽい感じの……。そうそう、明日香ちゃん、青が似合うよね。高校の制服は青が基調になっているから、本当によく似合うよ。……ところで、どうして急にクイズ?」 「いや……アンタのストーカー歴が長いんだなって思って、引いてるとこ」 「だから、ストーカーじゃなくて守護霊だってば」  ぷん、と怒ったように頬を膨らませるノゾム。 いや、そんな仕草男がしても可愛くな……そういえばこいつ、顔は良いんだったな……。  なんとなく負けたような気分に陥りながら、私は二階にある自室のドアを閉めて、すぐそこにある階段を下りる。何かが――これは、卵かな?――が焼ける匂いと、珈琲の匂いが漂ってきて、お腹がくう、と鳴った。意識していなかったけれど、お腹が空いていたみたいだ。  思わずお腹を押さえる私の姿を見て、ノゾムはどこぞのお嬢さんみたいに、くすくすお上品に笑った。 「明日香ちゃん、小食の割に食べるの好きだよねえ」 「チビの癖にってはっきり言ったら?」 「スレンダーって言ったんだよ」 「どうだか。耳触りの良い言葉選びがお上手だこと」 「ちゃんとした言葉を使いなさいって言われて育っていたからね」 「へえ、お坊ちゃんだったんだ」  ニッコリ笑うノゾムに苛立って、嫌味を返す。けれど、先程までポンポンと返って来ていた返事が、一旦そこで止まって、違和感を覚えた。つい、ノゾムのいる方向に目線を向ける。左斜め上の辺りに漂っていたノゾムは、どこか遠い場所を見つめていたが、私の視線に気が付くと、やはりニコリと笑った。  幽霊の癖に、考え事?  何となく面白くなくて、フンと鼻を鳴らすと、私は一気に一階のリビングへと足を進めた。 「あら、おはよう。今日は早いね?」 「ん、まあ。ちょっと」 「何かあるの?」 「あると言えばあるし、無いと言えば無い」 「なに、それ。まあいいわ、ご飯食べるの?」 「ちなみにメニューは?」 「ベーコンエッグと卵スープ。ごはんでも食パンでもお好きに。珈琲もあるから飲むならどうぞ」 「ベーコンエッグとスープとパン、いただきまーす。今朝は紅茶の気分なので珈琲はいりません」  母親と話をして、キッチンに入る。気分屋な私に合わせてわざわざ朝から料理を作っていられない、とのことで、我が家の朝食はセルフサービスである。取り敢えず母が手早く作れる料理の中から、ランダムに作られて置いておかれており、私が食べる日もあれば、気にくわず別のものを自分で用意する日もある。私が、気分が合わずに残した料理は、そのまま母の弁当に投入されるらしい。今朝はしっかり朝食が食べたい気分だったので、有難くいただくことにする。 「明日香ちゃんの家の、朝ご飯のシステム、独特だよね」  私の斜め後方に浮いているノゾムは、しみじみとした口調でそんなことを言っているが、母がいる前でノゾムと会話をするつもりは毛頭ない。無視だ、無視。 「お母さーん、今日、仕事遅くなる? 私、鍵持って行った方がいい?」 「んー……多分遅くなるから、持って行って」 「はあい」 他愛もない会話をしながら、朝食の準備をしてリビングに戻る。珈琲を飲みながらニュースを眺めている母親を横目に、私は早々に料理を胃の中におさめ、立ち上がった。 「ごちそうさま」 「もう終わり? やっぱり何かあるの?」 「別に」 「なんか、そういう芸能人、いたよねえ」 「知らない」  新たな思考に寄り道しつつある母親に素っ気なく言い返して、洗面台に向かう。顔を洗うことも、歯磨きをすることも、毎日やっていることだけれど、今日はいちいち隣でノゾムが「明日香ちゃん、顔を洗うの下手だよね」とか「うがい、二回だけでいいの?」とかコメントしてくるせいで、なんだかうんざりしてしまった。ご飯を食べている時も、「もぐもぐしている明日香ちゃん、可愛いなあ」とニコニコしながら観察してくるので、嫌になってつい早食いしてしまったのだ。  幽霊って、物理攻撃が効かないから、こっちが一方的に労力を使っている気がする……。  それに、普通の人相手だったら怒り出すなりなんなりしそうな塩対応を続けているのにも関わらず、ノゾムはずっと笑顔だ。  はあ……。メンタルの強いストーカーの相手がこんなに疲れるものだなんて……世の美男美女は相当に大変な思いをしているに違いない……。まさか、美男美女にこんなに同情する日が来るとは思わなかったな……。  内心ついたため息を振り払うように、準備を整えた私は家をでた。いつも家を出ているのより、一時間も早い時間だった。
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