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プロローグ
その日は、良く晴れた青空が広がる、夏の日だった。
「行ってきます……」
口の中で小さく呟いて、私はいつも通りに家を出た。
太陽の光が燦々と降り注ぎ、髪をじりじりと焼く。鬱陶しい。無意味だと思いながらも、軽く頭を振った。
「あつ……」
陽射しを放つもとを仰ぎ見るように上を向くと、強い光が目に飛び込んだ。たまらず目を細めながら、遮るように右手を頭上にあげる。
手の平越しに太陽を透かして見つめていると、光の輪が広がっていくような錯覚がして、くらり、とした。
「にゃんにゃん!」
ふと、甲高い声が耳を掠めて、声のした方へと視線を向ける。幼い女の子が、母親の手を引っ張って道路の方を示そうとしているようだった。
「まーま、にゃんにゃん!」
困惑した表情で道路へ視線を向けた母親に倣って、道路へと視線を向ける。少女の示した先には、のんきに顔を洗う猫がいた。
「あら、にゃんにゃんね。お日様浴びて、気持ちよさそうねえ」
「にゃんにゃ! きもちーね!」
「ふふふ、そうねえ」
少女と視線を合わせて微笑む母親の姿に、目を細める。平和なワンシーンだった。
猫は平和さに磨きをかけるように、ゆったりとした様子でにゃあ、と軽く鳴く。随分とのんびりした猫だな、と思った。
その時、トラックが遠くに見えた。どうやら猫がいる方向に向かって走ってきているようだ。
いやまあ、猫だし。身軽に走り去るでしょ。
そう考えて学校への道を急ごうとするが、どうにも視線が吸い寄せられる。猫らしからぬ愚鈍な動きに、私は何か嫌な予感を感じていたのだ。
猫はまだのんきに顔を洗っていた。
いやいや、まあ。私には関係ないし。
イヤホンを装着して、踵を返す。背中がじりじりと焦燥感に苛まれるのを感じた。
関係ない……関係ない。猫が走り去ったらいいだけ。もしかしたら、なんて、杞憂だ。下手なことをする方が恥ずかしい。それに、なんで私がわざわざ猫の為に動かなくちゃいけないんだ。
関係ない……関係ない。
関係ない……筈なのに……!
気づけば私は身を翻し、未だ走り出す様子を見せず、欠伸をかます猫に向かって走り出していた。
このバカ猫! 野生を捨てすぎでしょうが!
最初見たときは小さな影だったはずのトラックが、間近へと迫っていた。自分の嫌な予感が的中していたことに、小さく舌打ちを溢す。のんびり屋な猫に憤ると共に、くだらない葛藤で判断が遅れた自分にも腹が立った。
バカ野郎。私はいつも、余計なことを考えすぎる……!
嫌な予感がしたのなら、一応と思って、最初から猫を道路脇まで運んでおけば良かったのだ。
猫を抱え上げた瞬間、足がすくんで、目を瞑る。
ブレーキ音と共に、誰かの笑い声が聞こえた気がした。
「バカ野郎、危ねえだろ!」
そんな怒鳴り声と共に、私は恐る恐る目を開けた。何者かに背中を押された私は、道路のわきに座り込んでいて、その膝の上で、猫がまた一つ、欠伸をこぼしていた。
トラックの運転手は、車の上から何言か言うと、そのまま去っていく。その影を目で追いながら、私は困惑していた。
いったい何が起こったというのだろうか。
混乱する脳内を整理しようと頭に手をやる。
その時。
「明日香ちゃん、大丈夫!? ああ、ごめんね。僕、結構思いっきり押しちゃったよ」
頭上から聞こえた声に、私は顔を上げる。
最初に目に飛び込んできたのは、至近距離で私の顔をのぞき込もうとする目だった。
「えっ……? ひゃあ!?」
「わあ!?」
あまりに近い距離に、思わず悲鳴をあげて仰け反る。すると、相手も素っ頓狂な声を上げて大袈裟に後ずさった。
いや、驚いているのは私の方なんだけれど。
頭の中では冷静にそう返してはいるものの、中々思うように声が出ない。
間の抜けた顔で、餌を待つ金魚みたいに口をパクパクさせるばかりの私に、至近距離の大きな瞳が瞬いた。
「もしかして……明日香ちゃん、僕のことが見えている?」
心底不思議そうな顔をする青年に、「何言ってんだこいつ」と少々口汚く考えてしまったのも、仕方がない。
僕が見えてる? とか、自分のことなんだと思ってるんだろう。やばい人なんじゃ……。
訝しんでいるのが、私の目線から伝わったのだろうか。青年は、何かに気付いたように口元に手をやる。
「あっ……! 明日香ちゃんのその目は、僕のことを危ない人だと思っている目だね! 違うよ!? ほら、よく見てよ僕……」
「いや、そういうのいいんで……」
青年は慌てた様子で、何事か、言い訳を始めようとしているが、正直、付き合っていられない。私は首を横に振った。
「違うってばー‼ もう、じゃあこれでわかるでしょう‼」
「あの……助けてもらったことは感謝してるんで勘弁して……って……は……?」
言いかけていた言葉が途中で出なくなった。
それも仕方のない事だろう。ムキになって言い募る青年に軽く手を振り、その場を後にしようとした私の目の前で、青年は宙に浮いて見せたのだから。
「ほら僕、もう死んでいるからさ!」
屈託のない笑顔で、彼は両手を広げた。
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