ためいき、一度

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 ガタンゴトン、ガタンゴトン。  木々も家も公園も、すべてが早足で駆けていく。  雑多な音が沢山聞こえてくる割に、存外静かな空間で、彼女の耳は、ただ自らの乗る電車が走る音と、パラリ、と(ページ)(めく)られる音だけを拾い続ける。  化学ⅡBの教科書を読むフリして本に顔を埋める彼女の視線は、今日もそっと(うえ)へと向けられる。  視線の先にあるのは、彼女と同じく本を開き、時折(ときおり)パラリ、と繊細な紙の音を立てる男性の姿。  170代半ばの平均的な身長に、細身の身体。  (まと)う雰囲気は硬質で、黒ぶち眼鏡の奥にある瞳は切れ長ですっとしている。  すっきりと(まと)まった顔立ちは、好みは分かれるタイプだが、ある程度女性ウケの良いものだろう。  ラフな服装と見た目から、彼女は男性がおそらく大学生なのだろうとあたりを付けている。  男性が今日持っている本は『3秒で心電図を読む本』。一体どんな内容が書いてるのか、彼女には計り知れない。  昨日読んでいたのは、『フィジカルアセスメント読本』。その前は、『輸液(ゆえき)を学ぶ』。  彼女の想像は(ふく)らむ。  薬学部だろうか、医学部だろうか。それとも、看護学部か、はたまた理学部。  そんな彼女が持つ教科書は、いつからか化学や物理、生物の教科書ばかりになっていた。  なんとなく男性が読む世界に近づきたいのかもしれない。  今日も彼女は、視線を上げる。  毎朝のように自分の前に立つ、その男性の顔を盗み見るために。  男性は気付いているのだろうか。  彼女のその視線に、少しの熱が込められていることに。
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