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方舟より風に乗せて……
先生。昔、俺に質問したことがあったよな。
『あなたは無人島になにを持って行きますか?』ってね。
それはたぶん、俺になにかを伝えたかったんだと思う。でもさ、……重要なのは、”そこがどんな無人島なのか” なんだよね。
普通さ、想像するのはさ、そこそこでっかい島でさ。入り江があって川が流れ、中央には小高い丘やチーズみたいに幾つも穴のあいた岩山が聳え、島を一周するには歩いて2週間ほどかかる。
そして猛獣の食べ残しが見つかり、時折、どこからか人食い人種が、船に乗ってやってくる。
……そんなサバイバルな環境だろ?
船旅かまして嵐に巻き込まれ、辿り着いたその先。そこは想定外の世界だったよ。
踏みしめるたびキュッっと鳴る砂。芝生に似た植物。伸びたものでも精々俺の踝あたりまで。
白いキャンバスに千切った色紙を貼り付けて今まさに傑作が生まれる寸前みたいな美しい景色。
観光なら言うこと無し、だけど言うことは死ぬほどある。……問題だらけ。
ここはせいぜい、百メートル四方で完結している。島と呼ぶにはあまりにもに小さい。
当初、満潮になれば水没するかもと慌てたが、かろうじてそれはなかった。最低限の海抜にはあるようだった。
だけどなにもない。椰子の木ひとつ生えてない。動くものは、蜥蜴一匹すらいない。
この絶望的な現実がなければ、先ほどの質問には、こう答えていただろう。
まずなにはなくともまずナイフ。マズナイフと命名してもいい。ライターも欲しい。懐中電灯も忘れちゃいけない。道に迷わないための方位磁石、双眼鏡で助けの船を探さなきゃっ、てね。
だけどなにもない。だから道具の使い道がない。海は見渡す限り静かに波が寄せるだけで、紺碧は水平線まで続いている。それに遠くに陸地の陰があったとしてもどうすることもできない。
なにせ俺は5メートルも泳げないのだから……
先生。人はこんな状況に陥れば、いかに生きるかではなく、いかに死ぬかを考える。
恐怖心があるので――ある意味それが一番手っ取り早いのだけれども――おぼれて死ぬのだけはまっぴらご免。せめて椰子の木でもあれば……駄目だ、首を括るロープがない。答えはロープか?
いやいやだから、木は一本も生えてないんだってば。
餓死? それも嫌だ。ならいっそ台風が来て、自分の恐怖心ごと波に浚われた方がまだましだ。じわりじわりと苦しみながら死ぬなんてぞっとする。
灼熱の太陽で意識朦朧死ねればいいが、昼頃なのにほっこりする日差しは心地良いばかりで、夜は夜で日中に暖められた砂がお布団みたいで快適この上ない。
空には掴めそうな綺羅星。まさに絶望。
あのさ、こんな状況になったのは、先生にも責任があるんだぜ。
覚えてる? 『若いうちに海外を見てこい』 先生はそう言ったんだ。
クラスになじめなくて、引き籠もっていた俺のために、先生は何度も足を運んでくれた。
それがなかったら今頃、俺は社会の粗大ごみだった。
なんかテンパって、変形させた応援団の学ラン着て行って、みんなをどん引きさせたけど。
そんな俺がさ、卒業してちゃんと働いていたんだけれど、両親が立て続けに亡くなり天涯孤独と少々の遺産を手に入れた。そのとき『若いうちに海外を見てこい』先生の言葉を思い出したんだ。
それは今しかない、そう思った。
ユースの時代はとうに過ぎたと笑わないでくれよ。先生を尊敬しているからこそ、俺は旅に出たんだから……
まずはじめにインドのガンジス川で死体が灼かれるのを見に行った。けれど人生観なんてなにも変わりはしなかった。自分探しの旅人と肩を組んで歌を歌っただけだった。
そして次は大都会……ニューヨークの摩天楼を目指したのだけれど……
摩天楼の意味を知ってるかい? 天を摩する(こする)楼(高い建物)。
それを見る前に、嵐に巻き込まれてしまったけれど。でもさ、人間の作るものなんてたかが知れてる。近づかなくとも、空気が澄んでいるだけで、星は掴めそうに、すぐそこにある。
『若いうちに海外を見てこい』 この言葉の意味は、そういうことだったのかい?
って、なんか随分とセンチになっちまったな。それは、やはり死期が近いせいなんだ。
さっきから堪らなく喉が渇いてひりついている。餓死なんて相当時間がかかる。漂着して二日目だけど、動かないから空腹なんかはそれほどでもない。
でも人間には一日に2・3リットルの水が必要で、灼熱の太陽はなくともそれがなければ、人はすぐにでも死ぬんだ……
―――――――――――――
状況が一変した。なにが起きたと思う? 目覚めたら、海藻がたんまりある濡れた岩場がそこにあった。俺はむさぼり食ったよ。クラゲの水分の含有量は99%だがそこまでいかなくとも十分に水分を補給できる。そしてなにか違和感があった。で、閃いた。手近な石を拾い上げ、叩いた。
牡蠣だったよ。海のミルク。それが岩にびっしり張り付いていた。やっぱりむさぼり食ったよ。
―――――――――――――
先生。
俺は馬鹿だからとても時間がかかったけれど、今なにが起こってるのかようやく理解できたよ。
なんで毎日毎日、海藻と牡蠣が俺に提供されるのか、その理由を……
濡れた陸地はすぐに乾く。だけど翌朝になれば、また濡れた陸地が現れる。
この島は隆起している。裾野が広がっている……
―――――――――――――
悲しいけれど、さらに理解したよ。先生がもうこの世にいないってこともね。
メッセージ ・イン ・ア ・ボトルを気どって先生に手紙を書いたけど、ボトルがないからそれが流れ着くまでは生きていようと誓ったけれど、先生にこの手紙は届かない。
だってさ、星は掴めそうなのに、この世界には月がないんだ。
島が沈まないのは、月の引力による潮の満ち引きがないからだった。
絶え間なく寄せる波は、隆起する島がここだけじゃないことを物語っている。
ここはかつての地球じゃない。恐らくは点在する島以外の人類は、淘汰されたんだ。
―――――――――――――
答えは聖書だったのかもね。
白鯨の腹の中に住んでいたならいざしらず……
ノアの方舟に乗れなかった人々は粘土に変わり、神は空に虹をかけた。
そのあとはどうなるのだろう。そこまでしか覚えていない。
だけど先生、希望はあるんだ。数ヶ月前、ただの米粒みたいだったものが、段々と大きくなっている。今はもう、風のない穏やかな日は、微かに声が聞こえる程に近づいている。向こうの島から手を振るのは、金髪で青い目の、まだ少年のようだよ。
やがて二つの島は一つになり、新たなアダムとイブが誕生するのだろう。
俺が人類の母になるなんて、笑い話だ。リップクリームくらい持ってきてればよかった。一年で髪はいい感じのセミロングにはなったけど。
また先生に助けられたね。
月を無くし、地球のでこぼこがつるりと滑らかになる程の天変地異を、生き延びられたのは、
この旅のおかげさ。
そして答えは最初からあったんだ。卒業祝いに先生からもらった万年筆。
船室からはぎ取ったクラフトペーパーは、まあオマケと言うことで……
だから手紙を紙飛行機にして、方舟から風に飛ばすよ。
たとえ届かなくても、尊敬と感謝を込めて
先生への、淡い恋心とともに。
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