しかくいかくめい

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 緑の水玉模様。 地面に透けて、それを誰かの足が踏んで行って、震えるように影が消える。 頭上の木の葉が太陽に透けているんだなって、脳に意識が働き始める、ちょうどそのくらい。 ガサ——。 古びた紙が擦れ合う。鼓膜を柔らかく刺激する。その音は、幸福感の見え隠れする歓声にかき消された。この変哲のない歪みのない、平和という言葉のよく似合う景色に溶け込む。どこにも不具合はないはずなのに。 あれは、何。 水鏡に投げ込まれた石が波紋を広げていく感覚が、胸の中を埋め尽くす。  彼女は中に一億でも入っているのかと疑うほど、大事そうに―—そんな表現では足りないくらい——紙袋の中を探る。 昼休みのキャンパスの雑踏にぽつんとひとり。 もしかして、私だけが見える、幻? いやいやまさかね。 自分にちょっとだけ溜息をついて、おにぎりをひと口頬張る。 ガサガサガサッ。 「あ」 姿が見えかけた明太子を口に収めるタイミングを失って、代わりに、見えた。  直方体。 全体が均一なきつね色に染まり、一見すると工事現場から運んできた木材。 でも鼻をしきりにくすぐる、パン屋さんの香り。朝の目覚めと同時に店に漂うオーブンから漏れてきた香りを全部、直方体に詰めて持ってきたような。もう一度、今朝の目覚めを与えてくれるような。 『今日の直方体』も、ただものじゃない。 私の嗅覚は確実にその潜在能力を発揮している。  やはり大事そうに両手で抱えた直方体を、彼女はテーブルに用意してある木のボードに鎮座させる。すぐさま黒光りするレンズを向ける。野生のライオンを至近距離で撮影か、それとも数百年に一度の彗星のシャッターチャンスを待っているカメラマンか、器用に左手でレンズを動かし、細い指先は瞬きの間にシャッターを切り捌く。 次の瞬間にはもう撮影をやめ、直方体を両手で持ち上げ、何度も側面を押すのだ。微かに頷いたりして。 「え」 たっぷりと内部に含まれた空気が、そこにうずめた彼女の顔を包んでしまう。 直方体はその姿とは裏腹に、柔らかいようだった。 彼女の身体を巡る空気は全て、直方体から吸い取って、生きる根源からあの香りに溺れて、一体となっていく。 白銀のレースの日差しの下で、彼女の髪は透き通る。 神聖な影。 私には届かない、消えゆく神秘を、その横顔に重ねる。 彼女の生きる方法は、それしか残されていないように思えた。ほのかなパン屋の残り香が彼女をここに存在させているように、思えた。 「真佑どうしたのー?」 雑踏のその中で、誰の声にもどんな街の色にも溶けて、世界のどこかに零れていなくなりそうなのに。 脳の奥底で、香りだけはこびりついている。何日目かの、今日の分も。  通称・高級専門のパン子さん。 「真佑っておかしいよね、そんな面白い?」 「うん、んふふふふふ」 パン子さんの姿を思い浮かべるだけで、なんとなく幸せ。ほんの一瞬切り取った中に、具現化された幸福を見出せるのは彼女くらいだ。 「あ、見て」 カッティングボードにのった直方体——食パンであることはすぐに判別できるようになった——に細長いナイフを当てて切り分ける。それも五枚。全て異なる厚さ。 やっぱりそこに見えるのは神秘的な儀式のようで、彼女の祈りのようでもある。 パンは確かにキリストの象徴でもあるし。 「あ」 今日は、牧場の香り。 若葉が萌える朝に似合うミルクの香り。 刻一刻と季節が移ろうのと同時に直方体から溢れ出る香りも変わっている。 パン子さんがこの世界に溶け込むのと同じように、食パンの香りも季節に溶け込むのかな。  パン子さんの専門はもっぱら食パンなのだ。いわゆる高級食パン。 真四角の食パンの一方で丸眼鏡姿で、丸い瞳にはたぶん食パン以外何も見えていないし、真一文字に結んだ唇が緩む瞬間なんてないし、彼女が吸い取った幸福という名の香りのエネルギーはどこに消費されているのか、私には理解不能だ。 毎日同じフィルムを再生していると錯覚するほど、パン子さんの昼休みは変わらない。洋服と手に持つ紙袋が変わるくらいだ。 私の座る二つ隣のベンチとテーブル。彼女の左半分が日差しに包まれる、その角度。おもむろに紙袋から登場する二斤サイズの食パン。シャープな角が立つ直方体、昔の思い出みたいな鮮やかであり褪せたようでもある焼き色、手のひらに感じる重みと感触、そして空気と香り。食パンという宇宙の構成要素全てを確認して、彼女の手に食パンの存在を確かめて、それと同時に自分の存在も確かめて、ようやくその一切れを持ち上げる。 この世界が気付いたら消えてなくなるくらいの爆発が、彼女の中に起こりそうだ。革命だ、食パン革命。 「あ」 唇に、食パンの一片が触れた。 しっとり吸いつく絹のような断面の生成り色。 見えた気がしたのだ、私には。 ほんの数ミリ緩んだ唇の端が。 脳には鮮烈な、ミルクの香りが突き刺さった。 確かに。勘違いでも幻でもなく。 囁き声が、この耳元で反芻しているのだ。 ——「食べますか?」と。  ラベンダー色の水彩絵の具が弾かれて、追いかけるように青さが瞳に映る。 朝焼けって、こんなに一日の中で鮮やかな時間だったんだ。 でも。 夢うつつに揺れる家々の隙間から、突っ立って何見てるんだろう? 見知らぬ街に、私どうやって来たの? でも、身体の中で再生されている、この香り。 朝焼けのように燃える瞼の裏で、黒く重い扉の穴から誰かが向かって来るのが見える。 ほら誰かがその扉を開け放って、熱と一緒に漏れる小麦の香り——。 「お待たせしましたー朝焼けの食パン焼き上がりましたー」 私を押し退けてゆく後ろ姿が眩しく白く光る。 右足はあと一歩を踏み出そうとする。その香りに、この身体全てを包んでほしい。 何、この欲求は。 息が苦しい。あのオーブンの、あの直方体の中の空気が欲しい...。 このまま地獄に落ちそう、誰かに引っ張られて、食パン地獄に。 「——いいんじゃないですか」 え? ほんの数ミリ持ち上がった唇の端。 「パン、子さん——?」 だめだ、もう。 あの直方体に顔をうずめたい。 彼女が起こしたのは、革命なんかじゃない。 食パン地獄という名の日々に私を突き落としただけだ。 幸福なんかじゃない、私が向かうのはただの食パン信者の殉教の列だ。
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