第2章 引きこもり 6

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第2章 引きこもり 6

  昼食を済ませた檀家達がすっかり帰り、後片付けが済んだ後、魔王は扉を開けたままの本堂の中から音もなく現れた。土足ではなく、革靴をわざわざ手に持っている。  魔王は宗教に関する物を特に重要視してはいないようだが、人間が仏を大切に思う気持ちは尊重してくれるらしかった。  樹は魔王が戻って来るまで瞑想でもしようと、英知達と別れて本堂に向かっていたが、魔王の姿を認めて足を止める。 「お待ちしていました。よろしくお願いします」  樹は靴を履き終えた魔王が近くに来るのを待って、庫裡の脇に駐めてある車に向かって歩き出した。  ここは東京まで電車で一時間程度という立地ながら、車がないと生活が成り立たない土地なので、車は欠かせない。  一人に一台が理想だが、維持管理費がそれなりにかかるため、この寺にはコンパクトカー一台しかなかった。  身長が百八十センチを超えているであろう魔王には少々窮屈だろうが、ここは少し我慢してもらおう。  先程教えてもらった道順からして、志津子の家までは二キロそこらとはいえ、この辺りは山がちで、歩きで行くのは大変だった。  自転車は真綾が使っている一台だけしかないし、バスの便も悪く、タクシーは高い。  消去法で行くと、やはり自家用車を使うのが一番だろう。  幸いもう運転して一年以上になるので、魔王を隣に乗せて事故を起こす可能性はそれ程高くなかった。  魔王なら一瞬で志津子の家に転移することなど造作もないだろうが、山奥の一軒家という訳でもないだろうし、誰に見られるかわかったものではない。  樹は懐からリモコンキーを取り出し、車のロックを解除した。  助手席のドアを開けると、魔王を促す。 「どうぞ。狭くて恐縮ですが」  魔王は樹が開けたドアから車に乗り込んだが、やはり体の大きさに比べて車の大きさが若干アンバランスで、大人がおもちゃの車に無理矢理乗っているようなおかしさがある。  うっかり笑ってしまったら、「お前のせいだろう」というツッコミが入るより先に殺されそうだったので、何とか堪えたが。  樹は極力真顔で運転席に回り込むと、ドアを開けて乗り込んだ。  魔王は長い腕がつかえてシートベルトを締め難そうだったが、それでもきちんと締めてくれる。  同乗者がシートベルトをしていないと罰せられるご時世なので、嫌がらずに付けてくれるのは有り難かった。  樹は慣れた手付きでエンジンをかけると、ギアを入れ替えながら魔王に問いかける。 「……その、お尋ねしても構いませんか?」 「答えたくない質問に対しては黙秘権を行使するが、それでも構わないと言うのであればな」  魔王は窓の外に視線を投げ掛けながらそう答えた。  果たして人間でない存在にも黙秘権はあるのだろうかと思いつつ、樹はアクセルを踏みながら問いを口にする。 「失礼かも知れませんが、悪魔でないのなら、どうして普段は悪魔のような姿をしていらっしゃるのですか?」  キリスト教の方が仏教より優位性があるというような話だったら、あまり愉快な気持ちにはなれないだろうが、やはりどうしても気になった。  山門の前で車を一時停車させた樹は、左右の安全を確認しながら魔王の答えを待つ。  寺の目の前はいかにもな生活道路で、車などそう通らないが、安全確認は大事だ。  自分以外の人を乗せている時には特に。    人や車が来ないことを確かめた樹が再びアクセルを踏むと、魔王が言った。 「話せば少々長くなるのだがな」  魔王はそう前置きして語り始めた。 「そもそも、我はこの世界の外側に生まれ出でた精神体であり、肉体というものを持たない。それ故に長い時を超えて存在し続けることができるし、肉体に収まり切らない程の、万能に最も近い力を有することもできるのだ。だからこそ人間には神や仏と呼ばれていたりもするのだが、世界を創造したのは我ではないし、必ずしも人間にとって善なる存在という訳でもなく、むしろ敵対することの方が多いがな。その我と時を同じくして生まれた精神体の友人がいて――それがあの白い髪の女なのだが、最初は互いに姿形を定めてはいなかった。そのまま長いこと二人きりで過ごしていたのだが、やがて世界の内側に力と肉体半々で構成される人外の種族が現れたのを見て、あれが興味を持ったのだ。半分とはいえ肉体を持つあの者達は我等の同族ではなかったが、それでも人間よりは余程我等に近いからな。そしてあれは人外の種族と円滑に意思の疎通を図るために、あの者達に似た姿を創り出した。それがあの姿だ。肌は北方に住まうあの者達と同じ白いそれにし、極力警戒されないように性別は女を選び、より印象を良くするために美しい顔立ちにした。初めは異形ではなかったが、『誤解を与える余地なくあの者達とは明らかに異なる種族だとわかるようにした方がいいだろう』と我が言って、結果的にあの天使さながらの姿になったのだ。一方で、我はあの者達と特に親しく付き合うつもりはなかったのでな、あれと正反対に男の姿となり、蝙蝠のような羽を背負った。姿が悪魔に似ているのは、只の偶然の一致であって、それ以上の理由はないし、特定の宗教と深い結び付きがある訳でもない」  樹は「人間と敵対することが多い」という魔王の発言に一抹どころでない不安を覚えつつ、今まで走っていた細い道から、きちんと車線で区切られた道に出るために一旦停車した。  左のウィンカーを出すと、車が途切れた隙に前方の道に入る。  最寄り駅近くの道はなかなかに交通量が多いが、こうして脇道に逸れると車の数はかなり減って、時々しか対向車と擦れ違うことはなかった。  道路の周りを囲む雑木林、野原や畑に混じって、瓦屋根の大きめの民家がぽつりぽつりと建ち並んでいる。  駅の側には大きなマンションがいくつもあって、一軒家も今風の洒落た造りのそれが多いが、駅から少し離れればこんな風に和風建築の家ばかりが目に付いた。  店は一軒も見当たらない。  こうして改めて見るとつくづく田舎だなあと樹は思わずにはいられないが、市の人口はほぼ横ばいであるし、人がいる限り寺を維持して行ける可能性はあるだろう。    樹は気を取り直して、再び魔王に話し掛けた。 「先程のお話ですけど、つまりたまたま悪魔のような姿をされているだけで、あくまでキリスト教とは無関係という訳ですね?」 「そうだ。僧侶である其方にとっては面白くない話だろうが、キリスト教に限らず宗教というものは所詮絵空事であって、我とは基本的に力のやり取りをする以上の関係はない。どうせ有り余っている力なのだから、求められればどの宗教のどの宗派の者にも貸し与えはするが、それだけだ」  仏教とは無関係とはいえ、仏と呼ばれる存在に仏教を全否定されてしまったことに樹はひどく複雑な気分になったが、ひとまずもやもやを脇へと押しやると、ハンドル操作をしながら魔王に問いかけた。 「御力を貸して頂けるだけでも人間の立場からすると大変有り難いですが、人間と敵対されることなどあるのでしょうか? 先程少しそんなお話をされていましたが……」  魔王が人間にとってどんな存在なのかは、是非とも詳しく聞いておきたかった。  場合によっては、魔王をこれ以上英知達に近付ける訳には行かなくなる。  緊張していつも程上手く動かない手で、ぎこちなくハンドルを操作しながら、樹は問いを重ねた。 「あなたは、人間の敵ですか?」 「強いて言うなら、そうだろうな」  魔王はあっさりとそう肯定して続けた。 「人外の者達は人間に存在を脅かされていて、我等に庇護を求めて、配下となった。我はあの者達の王であり、配下達を守るために多くの人間を殺した。人間に対して個人的な恨みや憎しみを抱いている訳ではないが、必要があれば、我はこれからも人間を殺すだろう」  魔王の言う人外の種族とは、恐らく妖怪や魔物などと言われるものの類だろうから、魔王は名実共に魔王なのだろう。  王であるからには配下達を守る義務があるし、そのために敵である人間を殺すのは当然のことだ。  全く怖くないと言えば嘘になってしまうが、無闇に恐れることはないのだろう。  魔王は人間に恨みや憎しみといった感情を抱いてはいないそうだし、人間に神や仏として力を貸していることからもそれは明らかだった。  魔王の配下に危害を加えようとしない限りは、魔王が敵に回ることはないに違いない。    あくまでも、魔王の話が全て本当だったらの話だが。  魔王に悪意があったなら、自分は今頃ここにこうしてはいられないだろうから、ある程度は信用してもいいだろうが、やはり完全に疑いを消すにはまだ時間がかかりそうだった。  樹は強張っていた体からいくらか力を抜くと、細い道の横で一旦車を停めながら、更なる問いを口にする。 「配下の皆さんは、今どちらにいらっしゃるのですか? 今時その手の人間でない種族の話はほとんど聞きませんが」 「世界の外側にある我の城で暮らしているぞ。元々数が少なかったが、今では更に数が減って、固体総数が三十を切っているのでな、世界の内側にある領土は全て放棄してしまったのだ。配下達の食料を確保するために、時折公海で漁をする必要はあるが、この世界の人間の多くが人外の存在を架空のものとして位置付けている以上、最早我等の存在は公にするべきではないだろう。無用の争いは避けたい。我は何とも思わぬが、妃が悲しむのでな」  冷淡な発言が多い魔王だが、少なくとも妃のことだけは大切に想っているようだ。  きっと妃を悲しませないためだけに、魔王は何人もの人間を殺し続けてきたのだろう。  それはとても罪深いことかも知れないが、我欲のためだけに平気で同族を殺す人間の方が余程罪深いし、おぞましかった。    樹は対向車が途切れるのを待ってハンドルを左に切り、車がすれ違えない程の細い道を入って行く。  そのまま真っ直ぐに車を走らせながら、樹は言った。 「お手数ですが、雅楽さんという表札があったら教えて頂けますか? この辺りの筈なので」  先程志津子から家のおおまかな場所を教えてもらって、大体の見当は付いているものの、樹が雅楽家を訪ねるのはこれが初めてだった。  志津子の夫が亡くなった時には英知が家に呼ばれて枕経を行ったと聞いているが、その時には修行のために家を離れていて、樹自身は全く関わっていなかったし、年に二回檀家達の家を回って会報を配るのは住職である英知の役目なので。  雅楽家にかなり近付いているのは間違いないとはいえ、うっかりすると通り過ぎてしまうかも知れなかったが、魔王は確信に満ちた口調で教えて寄こした。 「その家なら、もう少し先だぞ」 「ご存じなのですか?」  樹がぎょっとして問い返すと、魔王は事もなげに答えた。 「先程も言ったが、我に肉体はないのでな、目で事物を知覚している訳ではないし、知覚範囲を自由に操ることができるのだ。辺り一帯の表札を読み取るくらいのことは造作もないぞ」  いろいろな意味で、魔王を人間と同じように考えてはいけないのだなあと樹がしみじみそう思っていると、魔王が再び教えてくる。 「その家だ」
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