第2章 引きこもり 7

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第2章 引きこもり 7

雅楽家は、この辺りではどこにでもあるような、大きめの古びた一軒家だった。  木造二階建てで、黒に近い灰色の瓦屋根。  広い庭には車を数台停められる車庫があり、様々な野菜が植わった畑がある。    樹は「雅楽」という表札の掛かった門柱の脇から敷地に入ると、車庫脇のスペースに車を駐めて、エンジンを切った。  シートベルトを外して車の外に出ると、魔王も同じように助手席から出て来る。  普段魔王が自分でドアを開けることはないだろうが、いつでもどこでも最上の待遇を受けるのが当然と考えるタイプではないらしい。  意外と融通が利くと言うか、柔軟なところがあるようだった。    樹が玄関ドア横のインターフォンを押すと、程なくして引き戸が開き、志津子のほっとしたような顔が覗く。 「いらっしゃい」 「お邪魔します。車は車庫の脇に駐めさせて頂きましたが、構いませんか?」 「ええ、大丈夫よ。さ、入って頂戴」  樹は魔王と共に志津子が大きく開けたドアから、靴脱ぎ場へと足を踏み入れた。  玄関脇には床と同じ焦げ茶色の下駄箱があり、その上には白いレースのクロスと、濃いピンクの撫子を活けた青い花瓶が置かれている。  短い廊下の両端には襖があり、その奥には木戸と二階へ続く階段があった。    樹が魔王と共に靴を脱いでいると、志津子がスリッパを並べながら声を掛けてくる。 「どうぞ、スリッパ使ってね」 「恐れ入ります」  樹と魔王ががスリッパを履くと、志津子は踵を返して歩き出しながら言った。 「こっちよ。あの子の部屋は二階なの」  家の中はしんと静まり返っていて、一歩踏み出す度に床の軋む音がよく響いた。  志奈乃が引きこもっていることを知らなかったら、他に人がいるとは思わなかっただろう。    先を歩く志津子は階段を上りながら、軽く樹達を振り返った。 「ごめんなさいね、わざわざ来てもらっちゃって。迷わなかった?」 「ええ、大丈夫でしたよ」 「そう、良かったわ。この辺は目印になるような物もないし、ちょっと心配だったんだけど」  階段を上がり切った志津子が足を止めたのは、鮮やかな紅葉が散る襖の前だった。志奈乃は眠っているのか、中からは何の音もしない。 「ここがあの子の部屋よ。悪いけど、お願いね」 「わかりました。お任せ下さい」 「じゃあ、私はお茶を淹れてくるから」 「あ、どうぞお構いなく」  にこりと笑った志津子が襖の前から退いて階段を下り始めると、樹は襖越しに志奈乃に声を掛けた。 「おーい?」  志奈乃は眠ってはいなかったのか、それとも今の呼びかけで目が覚めたのか、返事があった。 「んー? どちら様ー?」  若いが全く張りのないその声は、姿を見なくてもだらだらしている様が目に見えるようだった。  きっと部屋は散らかり放題で、服装はジャージやスウェット姿、髪はぼさぼさったりするのだろう。  小学校時代は地味でぱっとしなかったものの、だらしのないイメージは特になかったのだが、今日で相当なマイナスイメージが付いてしまいそうだ。 「よお、雅楽。久し振りだな」 「え? どこかでお会いしましたっけ?」    志奈乃が怪訝そうな声でそう訊いてきた。  最後に会ったのは十年以上前で、しかもまだ声変わり前だったのだから、わからなくても無理もない。  樹は言った。 「蛍原樹だよ。覚えてねえか? 小学校の同級生だっただろ?」 「蛍原君……ウチが檀家をやってるお寺の蛍原君だよね?」  取り立てて親しかった訳でもないので、顔を覚えられていたかどうかは怪しいものだが、流石に檀家をやっている寺の跡取り息子のことは忘れてはいなかったらしい。 「そう、その蛍原だよ」 「何でウチにいるの?」 「志津子さんに頼まれたんだよ。雅楽が引きこもりになったから、何とかして外に出られるようにして欲しいって」 「もう! おばあちゃんったら余計なことするんだから……」 「雅楽が心配掛けるからだろ。いい年してばあちゃん不幸するなよ。ここ開けてくれ」 「いやいやいやいや! それはホント無理だから! 冗談抜きで、ここ開けたら社会的に死ぬから!」 「何だかよくわかんねえけど、このままだと話し辛れえし、入るのが駄目なら外に出て来てくれよ」 「それも無理! お化粧してないし!」 「小学校じゃ化粧なんかしてなかったんだから、今更だろ。とにかく開けるからな」  樹は襖に手を掛けると、一気に引き開けようとしたが、志奈乃は襖の向こう側で必死の抵抗を試みているらしく、なかなか開けられなかった。 「おい! 往生際が悪りぃぞ! とっとと往生しろ! この馬鹿力女!」 「そりゃ悪くもなるって! 死にたくないもん!」  樹はしばらく粘ってみたものの、その内手が滑って、襖の取っ手から手が離れた。 些か乱れた呼吸を整えながら、力の込め過ぎで強張った指を解していると、それまで黙って事の成り行きを見守っていた魔王がおもむろに襖の前に立つ。 そして迷いのない動作でその長い脚を上げると、問答無用で襖を蹴り開けた。 「ぎゃあああああああ!」   志奈乃が断末魔としか表現のしようがない悲鳴を上げる中、予想外の魔王の行動に呆気に取られる樹に向かって魔王は言った。 「これで中に入ることができるだろう」 「……そ、そうですね。ありがとうございます」  荒事とは無縁そうな綺麗な顔をして、意外と荒っぽい真似を平然としてのける辺り、やはり魔王だなと樹は思う。  襖が開かないなら、外してしまえばいいというのは合理的な判断ではあるが、できれば人様の家ではやめて欲しかった。  一応良かれと思ってやってくれたのだろうから、そう目くじらを立てることもないだろうが。    樹は何気なく魔王から志奈乃の部屋の中に視線を転じて、そのまま思わず固まった。    部屋の中には所狭しとポスターが貼ってあって、そのポスターがなかなかに独特だったので。    男同士で妙にべたべたしていたり、上半身が裸だったり……これは所謂耽美系というやつだろう。  しかもポスターの中にいるのは、モデルや俳優ではなく、どう見ても漫画やアニメのキャラクターだった。本棚にも漫画らしき本がぎっしりと並んでいる。    道理で部屋に入れたくなかった訳だと、樹は深く納得した。  これは多分「男子中高生がアダルトサイトを閲覧しているところをうっかり家族に見付かった」に匹敵するか、それ以上に恥ずかしい状況に違いない。  身内ならまだしも、見られた相手が只の知り合い程度の間柄では、余計にダメージが大きかったことだろう。    襖を脇へ押し退けてのろのろと顔を出した志奈乃は、魂の抜けたような面持ちだった。  十年以上顔を合わせていなかったものの、その印象は小学校の頃とあまり変わってはいない。  よく見れば目は二重であるし、眉や鼻、唇といったパーツは形良く整っていて、顔立ち自体も悪くないのだが、華やかさとは無縁で、どうにも地味に見えた。  化粧っ気が一切ない上に、お世辞にもスタイリッシュとは言い難い黒縁眼鏡のせいもあるかも知れない。  櫛も碌に通していないのか、セミロングの黒髪はぼさぼさで、予想通りのジャージ姿だった。    樹は志奈乃の悲壮な顔を極力見ないようにしつつ、倒れた襖を元に戻しながら、控えめに問いかける。 「……えーと、とりあえず下行くか?」  志奈乃は黙って頷いた。  
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