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第3章 引きこもり 8
樹は志奈乃と魔王と共に、一階の居間に移った。
大きな家だけあって、雅楽家の居間は樹の家のそれの一.五倍くらいは広い。
畳敷きの床には重厚感溢れる大きな机が置かれていて、樹と魔王は窓側に座布団を敷いて座り、その向かいには志奈乃が一人で座っている。
木製の机の上には、志津子が用意した茶と大福の乗った小さな皿が人数分並んでいたが、手を付けているのは魔王だけだ。
志奈乃は余程ショックが大きかったのか、部屋の中を見られてからずっと、黙ったまま一言も話さなかった。
顔を俯きがちにして、置き物のようにただ座っている。
何も知らない志津子は、志奈乃が風呂やトイレ以外の理由で部屋から出たというだけで感謝感激の嵐だったが、図らずも志奈乃に一生物のトラウマを与えてしまった身としては、ひどく後ろめたい気持ちにならざるを得なかった。
悪気はなかったとはいえ、どうにも気まずい。
一体どんな言葉で、この沈黙を破ればいいのだろう。
樹が言葉に悩んでいると、大福を綺麗に平らげ、茶も飲み終えた魔王が茶碗を茶托に戻して、あっさりと沈黙を破った。
「おい」
「はい?」
魔王が自分と志奈乃、どちらに呼び掛けているのかよくわからないながらも、樹がとりあえず返事をすると、魔王は言った。
「先程からずっと黙ったままだが、この女を部屋から引っ張り出しただけで、今回の案件は解決したことになるのか?」
「いえ、流石にそれでは根本的な解決には程遠いので、もう少し働こうかと思っていますが……」
「ならば、早く働け。見合い中の男女ではあるまいし、このままでは日が暮れるぞ」
「申し訳ありません……」
樹が魔王に頭を下げると、どこか虚ろな目をした志奈乃がその唇をゆっくりと動かした。
「……さっき、部屋の中見たよね?」
先程のショックからようやく立ち直って来たのか、志奈乃が再び口を利いてくれたことに安堵しつつ、樹は慎重に答えた。
「ちょっとだけな」
「……だよね……」
志奈乃は焦点の定まらない目をしたまま、虚空を見つめて半ば独白のように続けた。
「今までひた隠しにしてたのに……とうとう腐女子バレしちゃった……完全に人生終わった……もう希望を来世に託して死ぬしかないよ……」
「親御さんやばあちゃんを悲しませるような真似すんじゃねえよ。それはともかく、『ふじょし』って何だ?」
樹としては至って純粋に疑問を口にしただけだったのだが、志奈乃にとっては相当に触れられたくないことだったらしく、突然机に突っ伏して泣き始めた。
しかもすすり泣きを通り越して号泣だ。まさか泣かれるとは思っていなかった樹がおろおろしていると、魔王が涼しい顔で教えてよこしてくる。
「腐女子というのは、要するに男色の物語を好む女のことなのだ。堂々と公言できる趣味ではないと、周囲の人間にひた隠しにしている者が多いそうだぞ」
「はあ……つまりそれだけショックが大きかった訳ですね」
知らなかったとはいえ、どうやらうっかり傷口に塩を塗り込むような真似をしてしまったらしい。
樹は反省すると同時に、何故魔王がそんな言葉を知っているのか不思議に思った。
日本語は話せるし、日本文化についてもある程度理解しているようだが、多分『腐女子』というのはオタク以外の日本人にはあまり知られていない言葉だろうに。
もしかして、こう見えて魔王も実はオタクだったりするのだろうか。
樹がそんなことを考えていると、志奈乃は何を思ったのか、急にぴたりと泣き止み、泣き濡れた顔を上げて魔王に問いかけた。
「……もしかして、オタクの人ですか?」
「取り立てて漫画やアニメーションといったものを愛好している訳ではないが、そういったものに関する知識はあるぞ」
「そういう漫画やアニメに詳しい人のことを、日本語でオタクって言うんですよ」
魔王の言い分は矛盾していて、樹は少し引っ掛かるものを感じたが、志奈乃は特に違和感を感じた風もなく、深く息を吐きながら続けた。
「あー……バレた片方がオタクの人でまだ良かったあ。即死レベルだった精神的ダメージが、ギリギリ致命傷レベルで済んだよ」
致命傷を受けた時点で、死んだも同然なんじゃ……?
と樹は思ったが、敢えてツッコミを入れることなく黙っておいた。せっかく泣き止んでくれたのだから、余計なことは言わないに限る。
志奈乃は目に溜まっていた涙を拭うと、再び魔王に言った。
「オタバレし合った仲ですから、ここはお互い、今日のことは秘密にしておきましょう」
「いや、我は決してオタクとやらではないのだが……」
魔王が困惑気味に訂正を入れると、志奈乃はわかるわかると言いたげに何度も頷きながら言った。
「隠れオタクはみんなそう言いますよね! 大丈夫ですよ! 誰にも言いませんから! その代わり、私が腐女子だってことも内緒にして下さいね!」
「ああ、まあそれは構わぬが」
「よっしゃ!」
魔王の言質を取った志奈乃が、そう言って右手をぐっと握り込むのを見て、樹は少し意外に思った。
もっと大人しくてしとやかなタイプなのかと思っていたのだが、そうでもないらしい。
思い返せば、先程の襖を挟んだ攻防でも大声を出しまくっていたし、案外言いたいことはきちんと言えるのだろう。
やはり人間見た目ではわからないなあと樹が思っていると、志奈乃は据わった目で樹を見て言った。
「いい!? 私が腐女子だってバラしたら、SNSに碧玉寺の中傷書き込みして、評判ガタ落ちさせてやるからね!」
「いかにも今時らしい陰険な嫌がらせだけどよ、俺は口が固いから安心しろ」
「……ホント?」
志奈乃の胡乱げな眼差しと問いかけを真っ向から受け止めて、樹は答えた。
「ホントだって。坊主なんてやってると、悩み相談を受けることもあって、それなりに人の秘密を聞く機会があるんだよ。勤め人と違って守秘義務規定がある訳じゃねえけど、余所で人の秘密をペラペラ話したりしねえ程度の良識はあるぞ」
インターネットが発達した現代においては、対面で相談に乗るよりネットを介したやり取りの方が多いが、相談者がどこの誰かわからない場合でも相談内容を口外したことはなかった。
よく知りもしない自分を、僧侶ということで信用して話してくれているのだから、その信用を裏切るような真似はできない。
不倫や二股などまだ可愛いもので、明らかに法に触れる秘密を暴露された時などは、通報しないことに良心の呵責を覚えたりもするが、その苦しみに耐えるのもまた、僧侶の務めというものなのだろう。
志奈乃はしばらく探るような目で樹を見つめていたが、やがてついと視線を逸らして言った。
「……わかった。信用するよ。おばあちゃん、住職さんのことも蛍原君のこともいい人だって言ってたし」
志津子が自分達のことをそんな風に言ってくれていたと知って、樹は胸が温かくなるのを感じた。
人に信頼されるのは、やはり嬉しい。
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