第2章 引きこもり 9

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第2章 引きこもり 9

「ねえ、ところで蛍原君って、その人とどういう関係なの? さっきから敬語使ってるし、友達じゃあないんだよね?」 「志津子さんから聞いてねえか? ウチの寺、去年から『お悩み解決事業』始めたんだ。で、この人にはそれを手伝ってもらってるんだよ」  樹が志奈乃から魔王に視線を流すと、魔王は志奈乃に軽く会釈をして言った。 「魔王だ」 「ど、どうも、雅楽志奈乃です」  志奈乃は魔王の自己紹介に面食らった様子だったが、それでもきちんと魔王に頭を下げると、机にずいと身を乗り出して口の横に手を当て、小声で樹に問いかける。 「……ねえ、魔王って渾名? 本名は?」 「いや、それは個人情報だから……」  個人情報の管理にうるさい世の中になって久しく、煩わしさを覚えることも多いが、こういう風に相手を煙に巻きたい時には便利な言い訳だった。 「……よく知らない人に名前をバラしたくないのはわかんないでもないけどさ、ネットの友達とのオフ会じゃないんだし、秘密主義にも程があるでしょーよ」 「気にすんな。とりあえず『魔王さん』って呼んどけばいいんだから」 「そりゃそうかもだけど……」  志奈乃は横目で魔王を一瞥すると、何やら納得した様子で座布団に座り直して言った。 「まあ、いっか。別に怪しい人には見えないし」  やっぱり、顔が綺麗って得だ。  樹が心底そう思っていると、志奈乃はふと話を変えた。 「そう言えば、さっき蛍原君が『おばあちゃんに頼まれた』って言ってたのって、その『お悩み解決事業』絡み?」 「そう。だから俺としては、何とか雅楽が引きこもりをやめられるようにしてえんだけど」 「それは無理!」  妙にきっぱりとした口調で断言する志奈乃に、樹は問いかける。 「何でだよ?」 「だって、元々コミュニケーションとか得意じゃないし、仕事を変えたって結局理不尽なことはあるし、嫌な人もいるもん。仕事やめた時、特別我慢できないくらい嫌なことがあった訳じゃないけどさ、『このまま毎日毎日、嫌な上司や先輩を我慢しながらずっと生きてくのかあ』ってふと考えたら、『ああ、無理だな』って思っちゃったんだよねえ」  机に頬机を付いた志奈乃は、ひどく遠い目をしてそう言った。  何か決定的な出来事があって引きこもったというパターンより、こういう「何となく辛いのが嫌だった」パターンの方が厄介そうだなと樹は思う。  医者も原因がはっきりしなければ、なかなか効果的な治療はできないものだろう。    樹は少し考えてから言った。 「……何があったか知らねえけど、子供じゃねえんだから、雅楽だってこのままでいい訳ねえってわかってんだろ?」 「そうだけど、もう疲れちゃったんだもん……。本が好きだから出版の仕事やってたけどさあ、別の出版社に移ったって、きっと自分が好きな本作れる訳じゃないし、どうせ上司や先輩は嫌な奴ばっかりに決まってるし、また働こうって気になれないんだよねえ」    志奈乃は深い溜め息を吐いてから続けた。 「蛍原君は何でそんなに頑張れるの? 檀家さんが少ないから、お寺を維持していくために住職さんと一緒に副業してるって、前におばあちゃんから聞いたよ? おまけに、こうやってわざわざ檀家の悩みを解決しに家まで来てるし。実家がお寺だからって、何でそこまでできるの? そんなに仏教が好きな訳?」 「今はともかく、子供の頃は仏教なんて別に好きじゃなかったし、むしろ嫌いだったぞ。って言うか、自分の家が寺っていうのが嫌だった。親父はハゲだって馬鹿にされるし、朝は早起きして掃除しなきゃならなかったし、面白くもねえ読経を山程させられるし、いつ檀家さんの葬儀があるかわかんねえから、泊りがけの旅行なんて連れて行ってもらったことねえしな」  今は今で平日は副業に追われているし、寺としての収入だけでやって行ける大きな寺ならまだしも、碧玉寺のような小さな寺だと煩わしいことが多いばかりで、実家が寺であるメリットなど大してなかった。  今時は実家が寺でも、敢えて寺を継がない人も多いと言うが、気持ちはわかる。    志奈乃は小さく首を傾げて、不思議そうに訊いてきた。 「それなのに、何でわざわざお坊さんになろうと思った訳?」 「十一の時にお袋が事故で死んで、いろいろと思うところがあったんだよ」  志奈乃は途端に気まずそうな顔になったが、魔王は全く気にした風もなく、無表情のままだ。  魔王にとって、人間の生き死になどどうでもいいことなのだろう。  琴音のことを軽く扱われているようで、多少複雑なところがないでもなかったが、とうの昔に吹っ切っているし、あまり気にされてもこちらの方が気を遣ってしまうので、いっそドライに受け流してくれた方が気が楽だった。  一方志奈乃は罪悪感いっぱいの顔で黙り込んでしまっていて、また深刻な雰囲気になりかけた空気を壊すように、樹は殊更軽い口調で言う。 「もう今年で二十五だし、今更母親を恋しがって泣くような年でもねえから、気にすんなよ。まあ、お袋が死んだ時には流石にショックだったけどな」  かれこれ十年以上昔のことだが、琴音が死んだ日のことは、今でもよく覚えている。  あれは夏休みも終盤の、ひどく暑い夏の日のことだった。  英知は仕事に行っていて、庫裡にいたのは樹と真綾と琴音、当時まだ存命だった祖母だけだ。  肩に届くかどうかの長さの黒髪を、いつも通り大きなバレッタで纏めた琴音は、朝から掃除や洗濯、料理など忙しく家事をこなしていた。  英知と対照的に琴音は柔和な顔立ちで、綺麗と言うより可愛らしい人という印象が今でも強い。    あの時真綾はまだ三歳で、その頃お気に入りだった迷路を一緒にやろうと、昼食後に頻りに樹にせがんでいた。  祖母が代わりに相手をしようとしてくれたが、真綾は樹と遊ぶことに拘って、樹は何度か言われるままに迷路をやった。  だが真綾は飽きずに繰り返し迷路をやろうと誘ってきて、苛々した樹が真綾を怒鳴り付けると、すかさず琴音に叱られたものだ。  不貞腐れていたら、琴音は時々しか買ってくれないアイス――オレンジ味だった――をおやつに出してくれて、とりあえず機嫌を直した樹が真綾と一緒にアイスを食べる姿を満足そうに見ていた。  きちんと謝れなかったが、せめて一言謝っておけば良かったと、樹は今でもそう思う。  琴音が事故に遭ったのは、その後すぐのこと――祖母に自分達の子守を任せて、車で買い物に出掛けて、それきりだった。  対向車のトラックの前方不注意が事故の原因だったらしい。  遺体を見せてもらえなかったことからして、相当ひどい状態だったのだろうから、もし琴音と一緒に車に乗っていたら、きっと今頃ここにこうしてはいられなかった筈だ。  琴音も、もしあの時買い物に行くのを止めていたら、まだあの家にいられたのかも知れない。  何度そう思ったかわからないが、しかしもうあの時に戻ってやり直したいとは思わなかった。 「……家が寺だから、お袋が入ってる墓はすぐそこにあったし、しばらくは毎日そこで泣いたりしてたけど、そうしたら親父が教えてくれたんだ。宇宙にあるものは全部体(たい)・相(そう)・用(ゆう)っていう三つの側面からできてて、体は六大(ろくだい)っていう地(ち)・水(すい)・火(か)・風(ふう)・空(くう)・識(しき)の六つの要素で成り立ってるんだって。地は固体、水は液体、火は燃える物、風は気体、空は空間で、識以外の物質的要素をまとめて五大って言うんだ。で、識って言うのは精神的要素で、これが加わって六大になる訳だな。真言宗じゃ、宇宙のあらゆるものはこの六大の性質と働きでこの世に生まれて、生きてるって考えてるんだよ。この六大っていうのは真言宗の根本本尊の大日如来様の象徴で、要するに俺達はみんな仏様の命から生まれて、いつかみんな仏様の中に還るってことなんだ。だからお袋は仏様の中に――大宇宙に還っただけだから、目に見えなくてもいつでも側にいるし、あまり悲しみ過ぎるなって。正直、小学生のガキには難しくてよくわかんねえところもあったけど、今までとはちょっと違う形でお袋が側にいてくれるってことはわかったし、それで気持ちがすっと楽になったんだ。その時に、坊主っていうのはこんな風に人を助けられるもんなんだなって思って、それで俺も親父みたいな坊主になろうって決めたんだよ」  僧侶になるためにまず得度を受けるのはどの宗派でも共通だが、修業期間はそれぞれの宗派で異なっている。  真言宗の場合は約三十日から四十五日程度の四度加行(しどけぎょう)や、計四週間の特別専修所での研修を受けることなどが定められているが、樹の場合は法力の使い方をしっかり身に付けることも目的の一つだったので、多くの僧侶よりかなり長く修行することになり、その分苦労も多かった。  だがおかげでこうして仏にも対面できたのだから、苦労した甲斐は十分あるというものだろう。    晴れて僧侶となった者の務めの一つに布教があるが、魔王が創造主ではないと言っていたことからして、真言宗の教えは決して真実ではなさそうだ。  成長と共にいろいろなことを知って、薄々気付いてはいたものの、真実とは異なるとわかった上で真言宗を広めることは、人を欺くことになってしまうのかも知れなかった。  しかし、人の心に迷いや悩みがある限り、宗教の助けを必要とする人々は必ずいる。  宗教というものは仏教に限らず、基本的に人生の苦しみや悲しみと上手く折り合いを付けて、より良く生きる術を説いているものなのだから。  仏教には不妄語戒という、嘘を吐いてはいけないという戒めがあるが、誰も迷惑しないどころか、少しでも幸せに生きて行けるのなら、敢えて事実とは異なる教えを説くのも間違ったことではないのだろう。  人を救うこともまた、僧侶の立派な務めだ。まだまだ未熟者ではあっても、きちんと修行を積み、自分の弱さと対峙し続けていれば、いつか英知のような僧侶になれるかも知れなかった。
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