第2章 引きこもり 10

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第2章 引きこもり 10

 志奈乃は神妙な顔で黙って樹の話に耳を傾けていたが、樹が話を終えると、ゆっくりと唇を動かして訊いてくる。 「……ねえ、訊いてもいい?」 「おう」 「蛍原君もオタクじゃないフリしてるだけで、実はオタクだったりする?」  今の話を聞いて、何でそういう質問が出てくる!?  思わず脱力した樹は、畳に手を付きながら問い返した。 「……何でそう思ったんだよ?」 「だって、オタクの人って、自分が好きな物についてだと、だーっと一気に喋ったりするから」 「ちげえよ。俺、別にアニメも漫画も見ねえし。大体、坊主なんだから、自分の宗派の教えに詳しいのは当たり前だろうが。そりゃ、漫画やアニメに限らず、何かに詳しい奴を『オタク』って言ったりはするけど、坊主を『仏教オタク』なんて言わねえだろ、普通」 「んー、まあ確かに神父さんや牧師さんを『キリスト教オタク』って言ったりするのは、ちょっと違う気がするよねえ。原作読み込んで熱心に研究してたり、自分がいいなあって思ってるものを熱心に人に勧めてたりするところには、かなりシンパシーを感じるけど」  どうやら志奈乃の発想は、どこまでもオタクに染まっているらしい。  思考回路が独特過ぎて、アニメや漫画好きのオタクが世間の人々から奇異の目で見られているのも、何となく頷ける気がした。  はっきり言って、これはかなりの変人の部類に入るだろう。    樹がげんなりしていると、志奈乃が懐紙に包んだ大福を千切りながら遠い目をして言う。 「まー、それはどうでもいいとして、私には蛍原君みたいに高い志がある訳でもないし、継がなきゃならない家業がある訳でもないし、わざわざ嫌な思いしてまで頑張る理由がないんだよねえ……」  脱線していた話がやっと本来あるべきところに戻って来たことに安堵しつつ、樹は言った。 「何もねえってこともねえだろ。お前の好きな漫画やアニメグッズだって、金がなけりゃ手に入らねえんだぞ。実家暮らしなんだし、働いてる時には貯蓄分差し引いても、毎月それなりの額使えてたんじゃねえのか?」 「まあ、そうだけど、しばらくは貯金切り崩せばどうにかなるし……」 「そんなの問題を先延ばしにするだけで、何の解決にもなってねえだろ。釈尊――お釈迦様はこの世の苦しみを四諦と八正道っていう言葉で解説されててだなあ……」  樹は滔々と釈迦の教えについて語ろうとしたが、その前に志奈乃はきっぱりとした口調で樹の言葉を遮った。 「ストップ! その話は知らないけど、どうせ『苦しいことだらけのこの世の中を、修行して清く正しく生きて行きましょう』みたいな話なんでしょ?」 「まあ、平たく言えばそういうことだな」 「だよね。子供じゃないんだから、こういう時に宗教やってる人が言うことなんて、大体見当付くよ」  どこか冷やかな口調でそう言った志奈乃に、樹は難しい顔になった。  どうやら志津子と違って、志奈乃は仏教を信仰してはいないらしい。  教えに耳を傾ける気のない人間を説得するには、どうすればいいだろう。  時々檀家や参拝客、あるいはネット上の見知らぬ人の相談に乗ることはあるが、樹がこれまで相手にしてきたのは基本的に仏教に関心があったり、救われたいと願っている人々ばかりで、この手の全てを放棄したような人間に教えを説いた経験はなかった。    こういう時、英知ならどんな言葉を掛けるだろうかと考えながら、樹は説得を試みる。 「一人前の大人だって言うんなら、引きこもりなんてやめて真面目に働けよ。世の中できた奴ばっかりじゃないし、理不尽な目に遭うこともあるけどさ、そういう相手の弱さを許せねえのも自分の弱さってもんなんだよ。考え方をちょっと変えるだけで、楽になれたりするぞ?」  志奈乃は茶を飲み干すと、湯呑み茶碗を叩き付けるように茶卓に置いた。 「あのさあ、宗教って何で辛い状況とか憎い相手じゃなくて、自分を変えさせて解決しようとする訳? 嫌いな相手をやっつけてくれるなら信じる気にもなれるけどさあ、おばあちゃんが何で毎日真面目にお勤めしたりしてるのか、全然わかんないよ」 「罰当たりな奴だな。仏様はお前の欲を満たしてくれる、都合のいい存在じゃねえんだよ。周りを変えるなんてできねえと思ってた方がいいくらいなんだから、自分が変わった方が手っ取り早いだろーが。修行にもなるし、心も穏やかになってストレスも減るし、いいこと尽くめだぞ? いきなり再就職しろなんて言わねえけど、まずはバイトくらいから始めてみろよ。それだけでも志津子さん達、随分安心すると思うぞ」 「そりゃ、そうした方がいいのはわかるけどさあ、バイトだって多少は責任あるし、怒られたりもするし、時給やっすいし、あんまり気が進まないんだよねえ……もう、このままずっと家でゴロゴロしてたい」  こいつ、人間として駄目過ぎる。    いっそ志奈乃の望み通り、永遠に引きこもらせてやった方がお互いの幸せのために一番いいのではと樹は思ったが、しかし志津子の手前そうも行かなかった。  せっかくこんな自分を頼ってくれたのだから、何とか解決してあげたい。
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