第1章 招来 2

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第1章 招来 2

「うわー! 何でか悪魔呼んじまったーっ!」    樹は転げるように大壇から離れると、男と距離を取った。    確かに大日如来を招喚した筈なのに、一体何がどうしてこうなってしまったのだろう。    予想外の事態にすっかり取り乱す樹を、英知が厳しく叱咤する。 「落ち着け、未熟者め! 私達は僧侶だろう! とにかく調伏だ!」  英知はすぐさま左手をへその下に伸ばして、右手の四指を握って金剛拳にし、左手の掌を仰向けて付けると、両手の親指を真っ直ぐ立てて先端を合わせる。  魔を調伏する印を結び終えると、気合いと共に法力を男に叩き付けたが、男は微動だにせず、法力を撥ね付けた。 「呼び出しておいて調伏しようとはどういう了見だ? この姿のせいで誤解が生じているようだが、我は悪魔ではなく、其方等が言うところの仏だぞ」  男は外見に見合う低く美しい声で、外見に見合わない流暢な日本語を紡ぎ出した。  てっきり言葉は通じないものだと思っていた樹は少なからず驚いたが、すぐに我に返って言う。 「嘘吐けっ! どうせ『悪魔じゃないけど、魔王です』なんてオチだろ! 無駄に大物っぽいし!」 「確かに魔王というのは我の呼び名の一つではあるが、そもそも神だの仏だの魔王だのというものは紙一重であるし、そのどれもが我を指す言葉だ。どの名で呼ぶのも其方の自由だが、いずれにせよ其方は我を招来し、我と契約して願いを叶える権利を得た。その権利を放棄するつもりならば、我はもう在るべき場所へと帰るが?」  男にそう問われて、樹は急に不安になった。  姿形だけを根拠に、この男を本当に悪魔だと断じてしまっていいものだろうか。  これが電話なら間違いが起こるのもわかるが、招来は特定の存在――仏そのものに呼び掛けるものなので、相手を間違えるとは考え難かった。  加えて男の纏う雰囲気は決して禍々しくはなく、そればかりか神々しいとすら言えるものだ。  もしこの男が本当に仏だったら、このまま帰られるのは非常に困る。    だが、どうやってこの男が悪魔でないことを確認すればいいのだろう。  この男が本当に仏なら、何度もその力を使わせてもらっている筈だが、力の強さを感じ取ることはできても、そこに指紋や声紋のような個体差を見出すことまではできないので、本物かどうか判断する手掛かりにはならなかった。    樹が悩む横で、英知は大壇に置いてあった金剛杵を手に声高に言う。 「この化け物が! 今すぐ立ち去れ!」  英知は法力が効かないと見るや、物理攻撃で男を撃退することにしたらしい。  金剛杵で今にも男に殴りかかりそうな英知を、樹は背後から羽交い締めにした。 「ちょっと待った!」 「何故止める!?」 「だって、万が一ってこともあるし……」 「何が万が一だ! あれはどう見ても悪魔だろう! お前もさっきそう言っただろうが!」 「そうだけど! そうなんだけど! そいつ反撃して来ないし、おまけに俺達じゃぜってえ歯が立たねえから! 戦っても無駄死にするだけだから! ここはとりあえず冷静になろう!」  英知は物凄く不本意そうな様子だったが、人並みに命は惜しいらしく、とりあえず大人しくなった。  英知も一応法力僧ではあるものの、あくまで一般人に毛が生えた程度のレベルなので、男の力量を正確に推し量ることは難しいのだろう。  樹はほっと息を吐いて英知から腕を離すと、口調を改めて男に切り出す。 「えーと、ちょっと確認させて頂きたいんですけど」  散々無礼な口を利いておいて今更だとは思ったが、落ち着いて考えてみると、強い力を持った人外の存在に対して、あのぞんざいな口調で話し続けるのはまずい気がした。  機嫌を損ねようものなら、あっさり殺されてしまうかも知れない。 「身分証明書とか、お持ちではないですよね?」 「あると言えばあるぞ」  あるんだ!?  身分の確認方法と言うとこれしか思い付かなかったとはいえ、まさか本当に持っているとは思わなかった。   仏や悪魔の世界も現世を反映して、何かと身分証の提示を求められたりするのだろうか。    樹が人外の世界に思いを馳せていると、男は鉤爪めいた黒く長い爪をひらめかせて、人指し指と中指の爪の間に運転免許証サイズの身分証らしき物を現出させた。  優雅に床に降り立った男が差し出したそれを、樹は両手で受け取り、英知と共に覗き込む。    そこにはこの男の顔写真の横にこう書いてあった。     氏名 なし   生年月日 不詳   職業 仏・神・魔王   住所 世界の外側    うわあ、見事に胡散臭い。  白人の姿をしているのに身分証がわざわざ日本語で書いてあるところが、また胡散臭さに拍車を掛けていた。  これが本物なら、これを発行している機関の名前や管理番号がどこかに書いてありそうなものだが、そんなものは見当たらないし。    樹は黙って英知と目を見交わした。    こういう場合、どう反応するのが正解なのだろうか。  「ふざけるな!」と突き返すことはできるが、それをやったら「殺して下さい」と言っているも同然だ。  やはりここはとりあえず「男が仏である」という前提で話を進めるのが得策に違いない。    樹は礼を言って身分証を男に返すと、おずおずと問いかける。 「……その、くどいようですが、本当に悪魔ではないんですね? 人間を騙して悪事を働こうとしている訳ではないんですね?」 「我が本当に悪魔で其方を騙そうとしているのなら、このような悪魔然とした姿で出て来る訳がないだろう。この姿はあくまで仮のもので、変幻自在なのだからな」  男はそう言うと、その姿を黒く溶かした。  驚いた樹が思わず後退った時には、男だった姿は女のそれへと変わっている。  化粧っ気は全くないが、先程の男の横に並んでも全く見劣りしないであろう、光輝くばかりの美女だ。  細く美しい白い眉の下で、瞳孔も虹彩も白い瞳が慈母のような優しさを湛えている。  形も高さも申し分ない鼻梁。  艶めく唇は上品な微笑に彩られていた。  磨き上げられた玉のように滑らかな純白の肌に、足元まで伸びた純白の長い髪。  薄紅色の石と長い飾り布が色を添える純白のドレスが、彫刻のように美しい線を描くほっそりとした長身を包み込んでいる。  その女の背中には、鳥の翼に似た大きな純白のそれがあった。 「この姿であれば、其方もそこまで我を疑うことはなかっただろう?」    外見のイメージを損なわない、優しく美しい女の声でそう問いかけられ、樹は小さく頷いた。 「まあ、確かに……」  もっとも、この天使にしか見えない姿で出て来られても、それはそれでなかなか仏だとは信じられなかっただろうが。  しかし、どうしてこうもこの男はキリスト教に馴染みのある姿になりたがるのか。  腑に落ちないところはあるものの、この姿で出て来た悪魔が仏であると言い張るのはあまりにも頭が悪過ぎるというものなので、樹はとりあえずこの「自称仏」を信用することにした。  逆にそう思わせてこちらを信用させることがこの男の狙いなのかも知れないが、その可能性は低いだろう。  男から感じる力は相当に強いので、この男がその気になれば、そんな小細工を弄せずとも力づくで自分達をどうにでもできる筈だった。 「とりあえず、話を聞いて頂けますか?」  樹の問いかけに、男は一瞬で元の姿に戻ると、鷹揚に頷いた。 「いいだろう」
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