第2章 引きこもり 1

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第2章 引きこもり 1

 樹が魔王と契約してから、丸一日以上が経った。  魔王は昨日樹の眼前から忽然と姿を消して以降、今日の夜になってもまだ姿を見せていない。  寺はいつもと何も変わらず、魔王を招来したことなど只の夢だったような気がしてくるが、真綾や英知はきちんと魔王のことを覚えていたので、決して夢ではないのだろう。    樹は夕食の後片付けを終えると、すぐさま自分の部屋に向かった。  直綴に白衣、割截の五条袈裟に着替えると、塗香(ずこう)を手や腕に塗り込んで身を清める。  それが済むと部屋を出て本堂に足を向けたが、樹は敢えて本堂の手前の廊下で足を止めた。  金剛合掌と呼ばれる合掌をして直立し、両手に絡めた念珠を擦り合わせた後、広げ、真言を唱えて五体投地――両膝、両肘、額を畳に付けて、両手で仏の足元を掬い上げるようにする礼拝方法だ――した。  普礼(ふらい)と呼ばれるこの一連の動作を必要な数だけ行ってから、樹はようやく本堂に足を踏み入れる。    誰もいない本堂は真っ暗で、樹はすぐさま照明のスイッチを押した。  天井から下がる照明は、もう何年も前に全てLEDに変わっていて、白い光に照らし出された大日如来は、今日も二重円相光(にじゅうえんそうこう)を背負い、伏し目がちに樹を見つめている。  大日如来は最初から悟りを開いている存在であり、如来像の中では例外的に王侯貴族の装いで、そこだけはあの魔王と相通じるものを感じたが、他は全くと言っていい程似ていなかった。  そもそもモデルが釈迦なのだから、似ていないのも道理というものだ。    その大日如来が結跏趺坐(けっかふざ)を続ける須弥壇は朱塗りが剥げてきた木造のそれで、何やら大日如来に申し訳ないような気もしたが、しかしこれはこれでこの寺で大事に受け継がれてきた物なので、なかなかおいそれとは変えられなかった。  おまけに買い替えとなれば、共同で寺を運営している檀家達に負担を掛けることになってしまう。  壇家達には寺の運営に必要な費用を負担してもらっているので、必要があればお布施を包んでもらうことは可能だが、今すぐ買い替えが必要な物でもない以上、安易に厚意に甘える訳にはいかなかった。    樹は一通りの供物を用意し、灯明に火を灯すと、大壇の前に半跏趺坐する。  それから合掌して観想しやすいように目を半眼にすると、呼吸を整えて背筋を伸ばし、普礼・塗香・三密観――吽、吽、吽と三度誦ずることによって、人間の行動である身・口・意の三業を浄化し、己の行を仏の三密と同一のものとする観相行だ――を行った。  真言を唱えながら、額・右肩・左肩・胸・喉を加持し、諸仏の徳が備わるように祈りを捧げ、何度も印を組み変えて、いくつもの真言を唱える。  そうして浄められた心の中に様々な如来、菩薩、明王が入り込み、体が大曼荼羅と化したところで、袈裟も加持した。  護身法を終えた樹は、三回五体投地して真言を唱えると、再び着座して己の内側に隠れ潜む如来の心身を露わにさせることを念じる。  印を組んで真言を唱えながら灑水器と呼ばれる鋳銅製の容器に満たされた香水を加持すると、散杖の先を灑水器に入れ、散杖を使って浄めた水を本尊、壇、供物、そして己自身に振りかけて、その全てを浄めた。    仏の力を借りて本尊に捧げる供物を更に浄めると、仏に祈願して仏法を望む日本の神祇達を呼び寄せ、大日如来の法号を唱える。  合掌して様々な真言を唱えてから、磬と呼ばれる道具を打ち鳴らし、念珠と香炉を脇机の定位置に置き直すと、樹は大日如来を招くための結界作りに取り掛かった。    真言を唱えながら印を壇に三度触れさせた樹は、金剛の杭を四方に打つ仕草をする。  次いで真言を唱えながら金剛杵を象った印を組み、金剛橛の間に垣根を張るように時計回りに三回転させて、結界を重ねた。  それが終わるとまた印を組み替えて、左膝・壇・右膝・胸・額・喉・頭頂を加持しながら『浄土変真言』と呼ばれる真言を七回唱え、この場を諸仏の浄土とする。  その途端、本堂の空気が明らかに変わった。  空気が澄み渡り、大いなる存在が近くにいることを肌に感じる。  樹はこの本堂が浄土と繋がったことを確信すると、更に別の印を組んで真言を唱え、仏の力を借りて無量の財宝を流失させた。  すると今度は本尊を迎える車の印を組み、また別の真言を唱える。  そうしてまた別の印を組んで本尊を招く仕草をしながら、大日如来を迎えるイメージがすっかり出来上がったところで、樹はようやく魔王を呼んだ。 「……魔王様?」  本当に聞こえているのか半信半疑だったが、魔王は瞬時に樹の頭上に現出してきた。  立ち上がった樹が恭しく一礼すると、魔王は些か呆れたような口調で言う。 「顔を上げるがいい。それと、我を呼びさえすればいいと言っただろう。一々正装で面倒な手順を踏む必要はないぞ。それらは全て、我にとっては何の意味もないものだ」  魔王に言われるままに、樹はそろそろと顔を上げた。 「あなたにとって意味がなくても、私にはありますから。仮にも仏や魔王と呼ばれる方をお招きする以上、やはり相応の礼を尽くすべきだと思いますし」  人間より上位の尊い存在には、やはり清明な心と正装で相対するのが相応しいだろう。  樹の物言いに、魔王は苦笑して言った。 「本当に生真面目な男だな。あの男といい勝負だ」 「あの男……どなたのことですか?」 「ゴータマ・シッダールタ――其方にとっては、釈迦という呼び名の方が馴染み深いだろうな」  魔王が口にした名前に、樹は大いに驚いた。  何と、魔王はあの仏教の開祖と面識があるらしい。  釈迦の生年月日についてははっきりわかってはいないが、紀元前五〇〇年前後の生まれらしいので、魔王はざっと二五〇〇百年程生きていることになる。  二十代半ばという若さの割にひどく落ち着き払っているのは、長い時を在り続けているからなのだろう。 「失礼ですが、どういうお知り合いだったのですか?」 「あの男は人間の中で初めて我と契約し得る力を有していてな、暇潰しに我から幾度か契約を持ちかけたのだ。あの頃の我は人間に招来可能な存在として知られていた訳ではなかったし、我としては人間が我と契約できる事実を多少なりとも広めて、其方のような人間が現れるきっかけを作れさえすればそれで良かったのだが、あの男ときたら己が悟りを開く以外のことには全く興味を持ち合わせてはいなかった。全く、期待外れもいいところだったぞ。挙句の果てに悟りを開くまで菩提樹の下で座禅を組み続けると言って、本当にほぼその場を動かずに座禅を組んでいたのでな、嫌がらせに欲望を煽ってみたり、幻の軍勢をけしかけてみたりもしたのだが、全く動じなかった」 「あー……あれ、実話でしたか」  今魔王が語ったのは、仏教の僧侶なら誰でも知っている釈迦のエピソードの一つだ。  魔王が釈迦の悟りを邪魔するために三人の美しい娘を送り込んで釈迦を誘惑したり、幻の軍勢をけしかけたりしたものの、釈迦は全く動じることなく、出家から六年後にとうとう悟りを得て『仏陀(ぶっだ)』――梵語で悟った者の意だ――となったという。  魔王は「仏兼魔王」だそうだが、どうやら魔王寄りの存在らしかった。  その名に違わず、なかなか碌でもないことを平然とする性格らしいこの魔王を、本当に信用していいのだろうかという疑問が今更ながら樹の脳裏を過ったが、しかしもう契約を交わしてしまった後だ。  とりあえず人助けを手伝ってくれるつもりはあるようなので、それ程悪どい存在でないことを祈るしかなかった。 「ところで、本日の用向きは何だ?」  魔王にそう問いかけられて、樹は慌てて答える。 「あ、実は三週間後の日曜日にこの寺で護持会総会(ごじかいそうかい)という集まりを予定しているのですが、これから私をお手伝い頂く訳ですし、その場で檀家さん達に紹介させて頂けないかと思いまして」  時々勘違いしている人もいるが、寺は決して住職の私物ではなく、住職達と檀家達が共同で管理しているものだ。  寺の人間だからと言って、寺のことを何でも好き勝手にできる訳ではないし、基本的に何をするにも檀家達にお伺いを立てる必要がある。  中には護持会のない寺もあるが、この寺にはあって、年に二回護持会総会を行うことで、寺の運営を円滑に進めていた。  魔王に対して賃金の支払いが発生する訳ではないし、魔王の人柄をきちんと見定めるまで、魔王のことは黙っていたらどうかと真綾には言われたが、寺に見知らぬ外国人が出入りしていたら不審に思う檀家もいる筈なので、やはり筋はきっちり通しておくべきだろう。  共同運営においては、信頼関係が何よりも大事だ。 「昨日お話しておけば良かったのですが、うっかり失念していたもので、申し訳ありません。ご都合はいかがでしょうか?」 「特に予定はないぞ」  魔王にも魔王の都合があるだろうと、あまり期待はしていなかったのだが、魔王は樹の予想に反してそう答えた。  そう言えば先程も暇潰しに釈迦にちょっかいを掛けたと言っていたし、実はかなりの暇人なのかも知れない。 「では、よろしくお願いします。朝の十時からですので、少し前にこちらにいらして頂けると助かります」 「いいだろう。では、三週間後にな。また何かあれば呼ぶがいい」 「はい、お手間を取らせて申し訳ありません。ありがとうございました」 「ではな」  魔王が一瞬で姿をかき消すと、樹は魔王がいた辺りに向かって再び深く一礼した。
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