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第2章 引きこもり 5
護持会総会は無事に昼前に終わった。
用意してあった弁当を檀家達に配って解散となったが、中には本堂で食事をしていく檀家もいる。
真綾は淹れ直してきた茶を檀家達に配り終えると、空になったテーブルを片付けていた樹の横に並び、声を潜めて話し掛けてきた。
「……ちょっと、お兄ちゃん! さっきの説明は何!?」
「何って、本当のことは話せなくても、やっぱり檀家さん達にはできるだけ嘘は吐きたくねえなーと思ってさ」
と応じる樹の声もかなり低い。
檀家達はまだすぐ近くにいるので、できればこの話題には触れたくないのだが、真綾にはまだ話を終わらせるつもりはないらしかった。
「正直なのは悪いことじゃないけど、時と場合によるでしょ! 思いっ切りあの人の正体バラしてどうすんの!」
「大丈夫だって。大昔ならともかく、今時本気にする奴もいねえよ。ああ言っておけば、人前でうっかり『魔王様』って呼んでも、『渾名で呼んでるんだな』って誰も気に留めねえだろうし」
釈迦の悟りを邪魔しようとした魔王があの魔王だったと判明したこともあり、樹の中ではもう完全にあの男は『魔王』としてインプットされてしまったので、たとえ無理矢理偽名を付けたところで『魔王』としか呼べない気がする。
と言うか、人前で絶対に『魔王』と呼ぶ自信があったので、それなら先手を打って置いた方がいいに決まっていた。
本気で魔王を本物だと思う人はいないだろうし、わざわざ言わなくても「渾名なのだろう」と納得してくれるとは思うが、念のためだ。
「もう! お兄ちゃんはお気楽過ぎ!」
つい声を高くした真綾に、英知が歩み寄って低く言う。
「少し頭を冷やせ。どの道、もう檀家さん達の耳には入ったんだ。ここで言い争っていても仕方がないだろう」
「そうだけど……」
真綾はまだ何か言いたそうだったが、檀家の一人が樹に近付いて来たので、それきり口を噤んだ。
「ごめんなさい、ちょっといいかしら?」
そう声を掛けてきたのは、雅楽志津子(うたしづこ)だった。
雅楽家とは何代も前から檀家としての付き合いが続いているそうで、志津子には時折お裾分けをしてもらったり、境内の掃除を手伝ってもらったりと、何かと世話になっている。
樹が物心付いた頃には既に「おばあさん」と呼んで差し支えない年齢だったので、若い時の志津子を知らないが、昔は結構な美人だったそうだ。
孫の志奈乃(しなの)はあまりぱっとしない感じだが、娘の志保里(しおり)は間違いなく美人なので、志津子も若い時には似たような美人だったのだろうと想像することは容易かった。
物静かな雰囲気で、皺の多い優しい目元が志保理達のそれと重なる。
年は七十歳くらいだったろうか。
真っ白な髪は肩に届かないくらいの長さで切り揃えられ、ピンクの花の刺繍が入ったグレーのアンサンブルと、濃いグレーのロングスカートという上品な装いがよく似合っていた。
志津子は元々小柄な上に背中が丸いことで、尚更小さく見えるのだが、今はいつも以上に小さく見える。
何か言い難い用件なのかも知れないと思いつつ、樹は尋ねた。
「どうされました?」
「実はね、ちょっと相談に乗ってもらいたくて……こちらに相談すれば、悩みを解決してもらえるんでしょう?」
どうやら新年度の『お悩み解決事業』の活動実績第一弾となる案件のようだ。
樹は表情を引き締めて言った。
「僧侶も只の人間ですから、絶対とは言いませんが、できるだけご希望に添えるように頑張らせて頂きますよ」
「ありがとう。実はね、相談したいのは孫の志奈乃(しなの)のことなの」
樹は志奈乃の顔を思い浮かべた。
小学校の同級生である以上の個人的な付き合いはなくても、この寺の檀家という繋がりのおかげで覚えていられたが、そうでなければきっとあっさり忘れ去っていたに違いないという確信が持てる程印象が薄い少女だ。
勉強も運動も人並みで、物静かで目立たず、顔立ちも決して不細工ではないものの地味だった。
樹は小学校卒業と共に地元を離れてしまったので、それ以来特に顔を合わせる機会もなかったのだが、こんな形でまた関わることになろうとは、人の縁というのは実に興味深い。
志奈乃の家が離壇しない限り、いずれまた何らかの形で顔を合わせる機会があるだろうとは思っていたけれども。
「志奈乃さん、どうかされたんですか?」
「それがね、ちょっと言い難いんだけど……」
志津子は樹を手招きすると、その耳元に唇を寄せて声を潜めた。
「引きこもりになっちゃったのよ」
男女関係の縺れかと思いきや、予想の斜め上を駄目な方向に行く展開だ。
しかも解決するのはかなり骨が折れる……と言うか、無理かも知れない。
引きこもりは今やこの国に万単位でいるらしいが、有効な解決策がないのが現状であるし、家族でもない外部の人間がどうこうするのはかなり難しかった。
藁にも縋る思いで頼ってくれたのだろうから、何とかしてあげたいのは山々ではあるのだが。
考え込む樹に、志津子は続けた。
「あの子、大学を出てから小さな出版社に勤めてたんだけど、上司や先輩と反りが合わなかったみたいでね、よく愚痴をこぼしてたわ。それでも何とか頑張って数年勤めたんだけど、先月とうとう会社を辞めちゃって、食事とお風呂とトイレの時以外、ずっと部屋に閉じ籠もってるの。何とかしなくちゃと思って、みんなで説得してみたけど、私達の話なんて全然聞いてくれないのよ。でもいくらまだ若いって言っても、こんな状況が続けば再就職も難しくなってくるでしょう? だから、何とかあの子がまた部屋から出て来てくれるようにして欲しいの」
「わかりました。上手く行くかはわかりませんが、とにかく志奈乃さんと話をしてみましょう。ご都合のよろしい日はいつですか?」
「できるだけ早い方がいいのだけど……今日の午後はどうかしら? 公彦さんはお友達と用事があるとかで家を空けてるし、娘もパートに出てるから、家にいるのは私と志奈乃だけなの」
幸い樹も午後は特に予定がなかったが、魔王はどうだろうか。
決して力仕事という訳ではないし、一人で行くこともできるが、せっかくなので魔王の働きぶりを見てみたかった。
「少々お待ち頂けますか?」
樹は魔王の姿を捜したが、本堂の中にはおらず、観音開きの扉を開けて外に出た。
ここは小さな寺なので、手水舎や鐘楼はなく、山門と墓地と本堂の他には、本堂脇の小さな六地蔵くらいしか寺らしい物がない。
すり減った石畳が敷かれた参道の先には、古びた山門があり、その横には「あなたのお悩み、できる限り解決します 無償ですので、お気軽にどうぞ 碧玉寺」と書かれた看板が置いてあった。
しかし、去年持ち込まれた依頼の数は決して多いとは言えない。
都市部のように不特定多数の人間が出入りする土地ではないので、この看板を目にする人々は大体決まっていて、なかなか檀家以外に活動を知られていないのが現状だった。
一応寺のホームページもあるし、SNSでも宣伝していたりするのだが、情報に溢れたこの時代に数ある寺の中からこの寺を見付けてもらうことは容易ではない。
何しろ文化財もなければ、日本史に登場した例もないという、特に見所のない寺なので、世間一般での知名度はゼロに等しいのだ。
そんな寺に新しく人を呼ぶのはかなり難しいが、魔王がいてくれればそれも叶うかも知れなかった。
樹が魔王の姿を探して視線を彷徨わせると、境内の隅に佇む魔王が目に入る。
その近くには、何故か全速力で魔王から逃げていく猫の姿があった。
一体何をしたのだろうと思いつつ、樹は「魔王様」と呼び掛けようとしたが、誰に聞かれているかわからないことを思い出して自重する。
「……その、魔王さんとお呼びしても構いませんか? 人前で様付けで呼ぶのは目立つので」
樹がそう声を掛けると、魔王は素っ気なく言った。
「好きなように呼べ。この国では往々にして神や仏に敬称を付けて呼ぶが、言語によってはそういった存在に敬称を付けないのが当たり前なのだから、敬称などなくとも構わぬぞ」
「いえ、流石にそれは気が引けますから」
外見上の年齢は同じくらいでも、魔王の実年齢は自分より遥かに上のようであるし、一応仏でもあるという存在を呼び捨てにするのはどうかと思う。
仮にも僧侶の身で仏をさん付けで呼ぶというのも十分不敬だろうが、気持ちの問題だった。
「ところで魔王さん、檀家さんから引きこもりのお孫さんが部屋から出られるように欲しいという急ぎの依頼があったのですが、この後のご予定はいかがですか?」
「空いているぞ」
「では、一緒に来て頂けますか? 約束は午後なので、実際檀家さんのお家にお邪魔するのは昼食後になりますが」
「では、その頃にまた来よう」
「あ、弁当を用意させて頂いているので、よろしければご一緒にいかがでしょうか? お口に合わないかも知れませんが」
「気持ちだけ有り難く受け取っておこう。食すことができない訳ではないが、我は食事を摂る必要がないのでな」
魔王のイメージが強過ぎて、今まで魔王にはあまり仏らしいところを感じたことがなかったが、他の命を犠牲にせずに存在できるところは流石に仏だなあと樹は感心した。
「では、また後程」
「ああ、またな」
魔王は軽く手を上げてそう言うと、山門に向かって歩き出した。
樹は魔王の後ろ姿が山門の向こうに消えるまで見送ってから本堂に戻り、志津子に言う。
「お待たせしました。ご希望通りに本日の午後から伺わせて頂きますので、よろしくお願いします」
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