第1章 招来 3

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第1章 招来 3

 この寺の本堂は庫裡(くり)――中小の一般的な寺における、僧侶が生活する場だ――と繋がっている。  この辺りは一時間程度で東京へ出られる土地ながら、冬の寒さがかなり厳しく、もう三月も終わろうかという今日のような日でも、天気予報の最高気温はわずか八度だった。  寺によっては本堂にエアコンを設置しているところもあるそうだが、この寺の本堂にはそんな物はない。  古い建物は気密性や断熱性に欠けるため、どうしても効きが悪いし、ここに人がいるのは一日の内のごく限られた時間だけなので。  樹は英知と共に短い廊下を男の先に立って歩き、男を居間に通した。  襖を開けると、誰もいなかった部屋の空気は冷え冷えとしている。  さして広くない畳敷きの部屋の中央には炬燵が堂々と鎮座し、その横手にある背の低い箪笥の上には、まだ子供の樹達が映った家族写真入りの写真立てがいくつも並んでいた。  英知が男に座布団を勧めると、男は特に戸惑う風もなく座布団に腰を下ろす。  ファンタジー物の漫画やアニメに出て来そうな風体の男が、日本家屋で座布団に座っているというのもなかなかシュールな光景ではあるが、和風建築なのだから仕方がなかった。    樹は卓の上に置かれていたリモコンを手に取ると、エアコンのスイッチを入れる。  冬用の生地の厚い直綴や襦袢を着込んでいるおかげで、樹自身はそれ程寒くはなかったが、男の方はどうだかわからない。    樹は念のために暖房の設定温度を少し上げてから、英知と共に炬燵の横に正座して言った。 「名乗り遅れました。私は蛍原樹――法号は樹心(じゅしん)と申します。この碧玉寺の副住職を務めています。こちらは父で、この寺の住職の英知です。先程は大変失礼を致しました」  樹が土下座をすると、男は特に不快さを露わにするでもなく言った。 「顔を上げるがいい。人間に化け物呼ばわりされるのには慣れている」  悪魔のような姿だが、仏とも呼ばれているだけのことはあって、なかなか寛大なところもあるらしい。  樹はほっとして英知と共に顔を上げた。 「お心遣い、痛み入ります。先程の身分証ではお名前がないことになっていましたが、とりあえず大日如来様とお呼びすればよろしいですか?」 「できれば他の呼び方がいいのだが。神だの魔王だのとは呼ばれ慣れているが、固有名詞で呼ばれることには慣れていないのでな。キリスト教に馴染みがあるなら、其方にとっては魔王と呼ぶ方が違和感がないだろう」  魔王というのは蔑称だろうが、確かにこの姿で仏と呼ぶのは違和感が凄まじいので、樹は男を魔王と呼ぶことにした。 「では、魔王様。とある方から招来した人間と契約して頂けるという話を伺ったのですが、これは事実でしょうか?」 「ああ。其方の願いは何だ?」  いよいよだ。  樹は緊張で乾いた喉に軽く痛みを感じながら、願いを口にした。 「実は、あなた様の御力を貸して頂きたいのです。人々が寺や僧侶を無条件に有難がってくれた時代は終わりました。こうした田舎の小さな寺においては、檀家さんの数は減ることはあっても、なかなか増えることはありません。私も日頃はこの寺を維持するため、役人として働きに出ています。最早どちらが本業かわからないような有り様ですが、仮にも僧侶である以上、やはりこんなことではいけません。私はもっと仏様の教えを広めたり、悩める無辜の人々の助けになったりしたいのです。そこで私は人々の悩みを聞くばかりでなく、積極的にトラブルの解決を図る、言わば便利屋のような事業を一年程前から始めました。父も平日は勤めに出ていますから、せめて週末くらいは寺を空けずにいた方がいいだろうと、基本的には私一人で対応しているのですが、あなた様にはそれを手伝って頂きたいのです」  仏の招来に挑戦し始めた頃は、仏と対面することこそが目的で、何を願うかは決まっていなかったのだが、いろいろ考えてこの願いに落ち着いた。  決して裕福ではないが、仕事をしていて家もあり、家族も皆元気で、これと言って叶えて欲しい願いもなかったため、それなら世のため人のために力を役立てさせてもらおうと思ったのだ。  自分一人のためではなく、多くの人々を幸せにするために願いを使うのが、僧侶として在るべき姿だろう。  樹は続けた。 「ある種のカウンセリング業を営んでいる僧侶はいますが、トラブルを解決する僧侶というのは聞いたことがありませんし、地道に続けていれば檀家さん以外の人々もこの寺に関心を抱いてくれるかも知れません。あざとく聞こえるでしょうが、今時新しく人を呼び込むことができない寺は消えていくしかありませんし、私はこの寺をそんな風にしたくはありませんから。しかし、私は法力が使えるだけの只の人間で、大したことはできません。ですが、あなた様の御知恵と御力があれば、より多くの人々を救うことができるでしょう。どうか、どうか御力をお貸し下さい」
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