第4話「報い」

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 気づけば私は階段を一歩降り、手すりでしっかりと身体を支えながらもう一歩踏み出した。ぎしぎしと音を立てながら、少しずつ、少しずつ。  1階の廊下に辿り着くと、そこはまだ静まり帰ったままだった。玄関。洗面所。だれもいない。出かけているのだろうか。  制服姿のまま私は、亡霊のように家の中を彷徨う。しかし、誰もいない。何も見つからない。世界は私を置いて滅んでしまったのか。そう思えるほどに。  キッチンへの扉を開ける。冷蔵庫の音が微かに響いていた。きれいに清掃されたテーブルと、整然とした食器棚。ここを主な仕事場としていた、松田さんの姿はない。どこにいるのだろう。冷蔵庫の扉の中。懐に入って、どきどきした日を思い出す。さすがに知ってるよね。私のことどう思ったのだろう。嫌いになったのかな。そりゃそうだよね――。  リビングに入り、ぼうっと辺りを見回す。数歩進んだところで、私はぎょっとした。  寝ている。だらしなくソファーに背中を預け、口を半開きにしたまま。テーブルの上にはビール缶が散乱し、灰皿は吸殻で溢れ、ひっくり返ったグラスの周りは濡れてぐしゃぐしゃで、絨毯にまで雫が垂れている。  いつも怖くて、威厳があって。決してだらしない姿を見せることはなかったのに。変わり果てた姿に愕然とし、思わず私は声を絞り出した。 「お父さん」  久しぶりに喋ったせいか、掠れてうまく声が出ない。それでも耳に届いたのか、父はむくりと首を起こし、虚ろに目を開く。紅潮した顔で、焦点の定まらない視線をそれとなく私に向け、ぼうっとしている父に私はもういちど喉を鳴らした。 「お父さん、仕事はいいの? お母さんは……松田さんは?」  うっと微かに唸り、大きく咳き込む父。はあと息を整えて手探りでビール缶を捕まえ、喉に流し込んでから言った。 「もうお前だけだ。――なにもない。お前も行くんだ。叔母の家にはもう話は通してある」 「なに。どういうこと? 2人は何処へ行ったの?」  父はビール缶を握り潰し、机の上に転がした。立ち込めるアルコールの匂い。思わず息を止めた私に、父は低く、か細い声で応えた。 「母さんは……もう母さんじゃない。離婚した。もうあいつは自由だ。全てを手放した俺にもう用はないだろうからな」 「離婚? 手放したって――」
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