55人が本棚に入れています
本棚に追加
/165ページ
私はそのお金を受け取ると、ポケットに捻じ込んで踵を返した。
もうここにはいられない。そんな薄い現実感だけが私を包んでいる。
「この家はもう終わりだ」
背後で父が呟く。私は振り返ることなくリビングを出て玄関で靴を履き、駅へと歩き始めた。
太陽が高いところにいて、雲の中にぼんやりと浮かび上がっている。人通りの少ない住宅街の影から影をおぼろげに渡りながら、うるうると視界がぼやけてきて。袖で拭いながらそれでも塞き止められなくて、ひたすら私は自分への怒りと情けなさで泣いた。
たったひとつの嘘。たったひとつの過ちで、私は全てを失った。
いや違う。奪ったのだ。父や母、松田さんから日常を。生活を。地位も名誉もプライドもぜんぶぜんぶぜんぶ。
ごめんなさい。
胸の奥で鳴り響いた言葉を、私はぐっと呑み込むことしか出来なかった。
最初のコメントを投稿しよう!