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怒りのターゲットが私に逸れたのを機に、松田さんは空いた食器を片付けたり、床に垂れた雫を拭いたりと忙しなく動き回り始めた。立ち尽くしたままぴんと張り詰めた空気に押しつぶされてしまいそうな私は、頭の中で必死に次なる言葉を探している。
どうする。さらに嘘をついてごまかすか。本当は全然やってませんと素直に打ち明けるか。もはやどちらが被害を最小限に抑えることができるかしか頭にない。せめてげんこつだけは避けたい。どうかげんこつだけは。
そのときだ。玄関ががちゃりと空いて、真っ赤なきらきらしたワンピースを身に纏った母が食堂に姿を現した。
「ただいま。いい匂いがすると思ったら、カツカレー。美味しそうじゃない」
「おかえりなさい。すぐにご用意いたします」
松田さんがいそいそと手袋をつけ、カレーを温めようと準備を始める。
「いいわ。外で頂いてきたから。それより見て、この髪型。似合ってる?」
艶ややかな爪が光る指で髪をかき上げながら、くるりと回って自慢のロングヘアを父に見せつける母。毎日買い物に出かけ、週に一度は美容院に行く。もちろん働いてなどいない。
「当たり前だ。お前は上物だからな、何を着ても様になる」
あれだけ強張っていた父の顔面が急激に穏やかになり、口元を緩めながら答える。
「またそうやって適当なこと言って。本当に思っているのかしら」
口を尖らせながら父のジョッキを手に取ってくぴりと口に含む。まんざらでもなさそうな笑みを浮かべながら母の色っぽい仕草を見詰めている父。松田さんは目で私に合図を送る。今だ。逃げなさい、と。
まさに助け舟、とばかりに登場した母のおかげで、私は窮地を脱した。足早に2階へと駆けあがり、自分の部屋に飛び込んで勉強机に座る。いつもならでーんとだらしなくベッドに飛び込んでゲームの電源を入れるのだが、さすがに今はそんな気分になれない。
宿題、取り掛かるか。
クリアケースから提出物一覧を確認する。これを見るのは終業式以来だ。ずらっと並ぶリストを眺めただけで眩暈がしそうだが、やるしかあるまい。
あと1週間。なんだかんだ毎年乗り越えてきた壁だ。いかに楽に、いかに早く、いかにそれらしく。
大好きなゲームは目につかない様にそっと一番下の引き出しの奥に仕舞いこみ、私の宿題殲滅大作戦はようやく幕を開けた。
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