第1話「父の背中」

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「お前もお隣にはみ出している庭木の剪定はどうした。自分でやるのか業者に頼むのか決めたのか? いつになったら報告してくるんだ」 「すいません。お爺様の遺品の整理の打ち合わせをしておりまして……」 「お前の手が空いているかどうか聞いているんじゃない。判断するだけなら今すぐここで出来るだろうか。言い訳をするな」 「あの……ええと、はい。すいません」  何かを言いあぐねて押し殺し、結局ぺこりと頭を下げる松田さん。食堂のドアの前で立ち止まったまま気まずい空気にさらされている私。あと少し。あと少しで自分の部屋に逃げ込めたのに。今一番触れてほしくない話題で引き留められてしまい、この有様だ。 「鈴。宿題はいつ終わらすんだ。まさか間に合わないなんてことはないよな」 「もうすぐ終わるから」 「本当か? お前は毎年ぎりぎりまで手を付けないからな。信用ならん」  嘘だ。本当はおっしゃる通り、未だ全く何も手を付けていない。すっかり見透かされているが、私は夏休みのあいだじゅう部屋でゲームに入り浸り、8月末になってひいひい言いながら駆け込みで宿題を片付けるというのを毎年繰り返している。こうしてこの時期に父に「宿題は終わったのか」と訊かれるのも恒例行事である。 「あと美術の課題と、英語の問題が残ってるだけ。間に合うから」  本当の事を言えばさらに父の怒りが炎上するのは目に見えている。すらすらと口をついて出た”ごまかし”の放水。信用の薄い私の、水圧の弱い言い訳じみた嘘でどうにか消えてくれと願いながら。 「なら今すぐここに持ってこい。終わっているところまで。ちゃんと進んでいるかどうか見てやる」  広げていた新聞の頁をばさりと捲り、眉間に深い皺を刻んで目を滑らせながら、父がとんでもないことを口にした。  全身を流れる血液が一瞬で凍り付く。やばい。や、ば、い。  余計なことを言って誤魔化そうとしてしまったばっかりに、窮地に追い込まれてしまった。夏休みの課題の冊子なんて、ページを開いてすらいないしピッカピカだ。こんなの父に見せようものなら、私の脳天に怒りのげんこつが降り注ぐに違いない。あれは痛い。すでに過去に4発食らっている。  
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