それを食ったのならば

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 下校時間。  勇翔が使っている南門を通るには、学校の中庭を横切っていく必要がある。  湿った空気を鼻先に感じながら歩いていると、前方に見慣れた背中が見えた。圭太だ。確か圭太は何かの部活に所属しているはずだが、この時間に帰っているということは、サボりだろうか。  そんなことを考えていると、ふいに昼間の出来事が勇翔の頭をよぎった。そして気づく。  圭太はひとりだ。  勇翔もひとり。  中庭には今、ほかに人影はない。  これは好機だ。  深く考えるよりも早く、勇翔は鞄を肩から落とし、地面を蹴っていた。物音に気がついた圭太が振り返る前に、彼の後頭部の髪を掴み、そのまま引き倒す。  地面に仰向けになった圭太は、初め、状況をわかっていない様子だった。ただ、逆さまに勇翔と視線を合わせると、その目がいっぱいに見開かれる。  圭太は口をぱかりと開けた。助けでも呼ぼうとしているのだろうか。  たったこれだけで?  そう思うと、なんだかこそばゆい気持ちになった。勇翔は上体を倒し、圭太の胸の真ん中あたりを勢いよく踏む。ぐえっ、と、圭太の喉が鳴った。  圭太の、運動をしている割には華奢な体へ馬乗りになる。圭太は少しだけ暴れたが、頭を地面に押さえつけると静かになった。 「ゆ、ゆうひ……」  掠れた声が勇翔を呼ぶ。 「なに」 「え、なに、これ。フクシュー、みたいな?」  棒読みで発音されたそれは、咄嗟に漢字へ変換することができなかった。フクシュー。……復讐。  少し考えてから、勇翔は首を横に振り、きっぱりと答える。 「違うよ」 「じゃあ、なに……」  圭太を押さえているのとは別のほうの手で、勇翔は地面に触れた。指を立て、校庭に比べると柔らかい土を掘り出す。 「圭太が、僕はわかりづらいって言ってたから」  手のひらいっぱいになった土を掴み直す。  わからない、ということは恐ろしい。勇翔も、圭太が自分をいじめてくる理由がわからなかったから、この一週間はずっと恐ろしかった。  でも、それは圭太も同じだったのだ。  勇翔の感情がわからないから、怖くて、気持ち悪かった。  僕たちは同じ。  そう思うと、勇翔は圭太が可哀想になった。  勇翔は圭太のことがわかったけれど、圭太にはまだ、勇翔のことがわからない。それは可哀想なことだ。助けてやるべきではないのか。 「わかりたいなら、こうするしかないよ」 「は」  微かに圭太の唇が開く。  その隙間へ、勇翔は手の中の土をねじ込んだ。  一瞬の沈黙の後、圭太の体が跳ねる。じたばたと手足が激しく動き、勇翔のことを退けようとする。  勇翔はそれを押さえるように体を倒し、両手で圭太の口もとを覆った。土を吐き出そうと、圭太の生温かい舌が手のひらに触れてくる。その感触はこの上なく気持ち悪かったけれど、なんとか耐えようと目を瞑る。暗い瞼の裏に、勇翔は昼間の光景を思い描いた。  落ちていった弁当箱の中身。  掴み上げた米は冷たかった。  噛み締めた砂は、とても、とても、不味かった。  あの時勇翔の胸に湧いた感情を正しく伝えようとするなら、圭太に同じことをしてもらうよりほかはない。 「食べるしかないんだ……食べなきゃわからないんだ、味も、中身も」  勇翔は子どもに言い聞かせるように囁いてみせた。だが、勇翔の手を引き剥がそうと躍起になっている圭太には、何も聞こえていないようだ。  圭太が、勇翔の手の甲に爪を立てる。ぷつりと皮膚が破けて、赤い色が微かに滲んだ。痛くない、わけではない。  それでも勇翔は退かなかった。  早く食べてしまえばいいのに。そう思いながら、もがき続ける圭太を見下ろす。 「う、ううっ」  言葉にならない音が、圭太の口もとから漏れた。  圭太はぐずる子どものように首を横に振り、その目に涙を浮かばせる。頬も、耳も、赤く染まっていた。  そんな圭太の顔を見て、勇翔は不思議と自分の胸が熱くなるのを感じていた。圭太から目が離せない。じわりと唾液の量が増える。  勇翔は、母がくれた桃色のドロップのことを思い出した。味がわからなくて、でも食べてみたら美味しかった、あのドロップ。あれを食べた時も、勇翔は似たような昂りを覚えたような気がする。  だが、似ているだけだ。何かが違う。  今、胸にあるそれは、確かに初めて味わう興奮なのだ。  これはいったい何なのか——新たに生まれた疑問の答えをくれたのは、あの時、圭太と交わした会話だった。  ああ、そうか。これが。 「本当だ。わかりやすいって、面白いね、圭太」  勇翔の呟きに、圭太は同意も否定も返さない。  ただ、彼の白く細い喉が上下するのを、勇翔は確かに見た。
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