2人が本棚に入れています
本棚に追加
下校時間。
勇翔が使っている南門を通るには、学校の中庭を横切っていく必要がある。
湿った空気を鼻先に感じながら歩いていると、前方に見慣れた背中が見えた。圭太だ。確か圭太は何かの部活に所属しているはずだが、この時間に帰っているということは、サボりだろうか。
そんなことを考えていると、ふいに昼間の出来事が勇翔の頭をよぎった。そして気づく。
圭太はひとりだ。
勇翔もひとり。
中庭には今、ほかに人影はない。
これは好機だ。
深く考えるよりも早く、勇翔は鞄を肩から落とし、地面を蹴っていた。物音に気がついた圭太が振り返る前に、彼の後頭部の髪を掴み、そのまま引き倒す。
地面に仰向けになった圭太は、初め、状況をわかっていない様子だった。ただ、逆さまに勇翔と視線を合わせると、その目がいっぱいに見開かれる。
圭太は口をぱかりと開けた。助けでも呼ぼうとしているのだろうか。
たったこれだけで?
そう思うと、なんだかこそばゆい気持ちになった。勇翔は上体を倒し、圭太の胸の真ん中あたりを勢いよく踏む。ぐえっ、と、圭太の喉が鳴った。
圭太の、運動をしている割には華奢な体へ馬乗りになる。圭太は少しだけ暴れたが、頭を地面に押さえつけると静かになった。
「ゆ、ゆうひ……」
掠れた声が勇翔を呼ぶ。
「なに」
「え、なに、これ。フクシュー、みたいな?」
棒読みで発音されたそれは、咄嗟に漢字へ変換することができなかった。フクシュー。……復讐。
少し考えてから、勇翔は首を横に振り、きっぱりと答える。
「違うよ」
「じゃあ、なに……」
圭太を押さえているのとは別のほうの手で、勇翔は地面に触れた。指を立て、校庭に比べると柔らかい土を掘り出す。
「圭太が、僕はわかりづらいって言ってたから」
手のひらいっぱいになった土を掴み直す。
わからない、ということは恐ろしい。勇翔も、圭太が自分をいじめてくる理由がわからなかったから、この一週間はずっと恐ろしかった。
でも、それは圭太も同じだったのだ。
勇翔の感情がわからないから、怖くて、気持ち悪かった。
僕たちは同じ。
そう思うと、勇翔は圭太が可哀想になった。
勇翔は圭太のことがわかったけれど、圭太にはまだ、勇翔のことがわからない。それは可哀想なことだ。助けてやるべきではないのか。
「わかりたいなら、こうするしかないよ」
「は」
微かに圭太の唇が開く。
その隙間へ、勇翔は手の中の土をねじ込んだ。
一瞬の沈黙の後、圭太の体が跳ねる。じたばたと手足が激しく動き、勇翔のことを退けようとする。
勇翔はそれを押さえるように体を倒し、両手で圭太の口もとを覆った。土を吐き出そうと、圭太の生温かい舌が手のひらに触れてくる。その感触はこの上なく気持ち悪かったけれど、なんとか耐えようと目を瞑る。暗い瞼の裏に、勇翔は昼間の光景を思い描いた。
落ちていった弁当箱の中身。
掴み上げた米は冷たかった。
噛み締めた砂は、とても、とても、不味かった。
あの時勇翔の胸に湧いた感情を正しく伝えようとするなら、圭太に同じことをしてもらうよりほかはない。
「食べるしかないんだ……食べなきゃわからないんだ、味も、中身も」
勇翔は子どもに言い聞かせるように囁いてみせた。だが、勇翔の手を引き剥がそうと躍起になっている圭太には、何も聞こえていないようだ。
圭太が、勇翔の手の甲に爪を立てる。ぷつりと皮膚が破けて、赤い色が微かに滲んだ。痛くない、わけではない。
それでも勇翔は退かなかった。
早く食べてしまえばいいのに。そう思いながら、もがき続ける圭太を見下ろす。
「う、ううっ」
言葉にならない音が、圭太の口もとから漏れた。
圭太はぐずる子どものように首を横に振り、その目に涙を浮かばせる。頬も、耳も、赤く染まっていた。
そんな圭太の顔を見て、勇翔は不思議と自分の胸が熱くなるのを感じていた。圭太から目が離せない。じわりと唾液の量が増える。
勇翔は、母がくれた桃色のドロップのことを思い出した。味がわからなくて、でも食べてみたら美味しかった、あのドロップ。あれを食べた時も、勇翔は似たような昂りを覚えたような気がする。
だが、似ているだけだ。何かが違う。
今、胸にあるそれは、確かに初めて味わう興奮なのだ。
これはいったい何なのか——新たに生まれた疑問の答えをくれたのは、あの時、圭太と交わした会話だった。
ああ、そうか。これが。
「本当だ。わかりやすいって、面白いね、圭太」
勇翔の呟きに、圭太は同意も否定も返さない。
ただ、彼の白く細い喉が上下するのを、勇翔は確かに見た。
最初のコメントを投稿しよう!