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Scene3.『隠れた意図』
ブラッドを乗せて逃亡した車は走行を続けていた。ハンドルを握る男性のグレーの瞳は鋭く研ぎ澄まされ、神経が前後左右に張り巡らされていた。その横顔を見ていたブラッドがその沈黙を破る。
「フランシス……」
それは霞んで消え入りそうな声だった。男性は緊張を解かずに前方を向いたまま、短く「はい」と返事した。
「助けてくれてありがとう」
ブラッドはささやかな微笑を添えてそう呟いた。狙撃されたという驚愕の余韻はまだ残っていたが、隣にいる男性の存在がそれを緩和させてくれていた。「いいえ、私はあなたの護衛(ボディガード)を兼ねた執事ですので」
男性は恭しくそう返した。それは分かりきった答えではあったが、ブラッドには嬉しかった。少し照れながら苦笑を漏らす。
「そうだったね……」
また沈黙が戻った。フランシスと呼ばれた男性は鮮やかなハンドル捌きで車線変更する。それから車は大通りに入って加速した。
やがてその沈黙は途絶えた。序曲のように違和感なくブラッドが語り始める。
「リチャード伯父さんに新しい執事を紹介するって言われた時は不審に思ったけど、お前があの屋敷に来てくれて良かったよ」
思い返すブラッドは軽く目を細めた。心の中では、さまざまな意味の笑いを繰り広げていた。それは皮肉と悦びと疑念、それぞれが孤立した意味の笑いだった。
フランシスがブラッドの屋敷に来たのは半年前に遡る。ある日の晩、ブラッドの伯父リチャードが何の前触れもなく彼を連れてきたのだ。
「ブラッド、今日はお前にもプレゼントを持ってきた」
ブラッドの母ロビネッタに会うことを口実に屋敷を訪れたリチャードは、彼女への手土産と形だけの挨拶を済ませた後、どこか怪しげで大げさな笑顔でそう言った。
「あのぶっきらぼうな執事をお前が解雇してしまったからなぁ、何かと不便だと思って連れてきた」
彼が手を叩くと扉が開き、その奥から一人の男性が姿を現した。リチャードがその男性の背中に手を当てて招きよせる。
「この屋敷の新しい執事だ」
「!?」
ブラッドは驚愕した。紹介してきたのが伯父のリチャードだったからだろう。リチャードはブラッドの“直感能力”に魅せられ、甥のことを便利な道具か何かと勘違いしている。ブラッドがその直感能力で犯人を言い当てたりする度に、賭博で大儲けしたギャンブラーのように笑うのだ。刑事としてのプライドはどこへやら、彼は自分の名声を甥の力で密かに勝ち取ろうとする人間となっていた。ブラッドにはそれが痛ましかった。そして特殊な能力を授かってしまった自分の運命を呪った。自分を見詰めるリチャードやもう一人の伯父がそうさせたのだ。彼らのあの邪な視線が眼に、脳裏に焼きついて離れない。――野心の塊そのものと言っていい狂喜した眼が。
その伯父が紹介する人物だ。何か裏があるのでは? と不信感を抱いてしまうブラッドだったが
「彼はフランシス・ロイド。事情があって大学は出ていないが、知性、才能ともに長けている。特技のピアノはプロに匹敵するほどの腕前だ。そして――射撃の名手でもある」
随分と揃い踏みだな、と冷めた目をしながらブラッドはそれを聞いていた。この伯父はきっと都合の良いことしか述べていないのだ。こんなにも好条件が重なるわけがない。ブラッドの不信感は深まったが……
「お世話になります。ブラッド様」
名を名乗る簡単な自己紹介をした後、男性――フランシスはそう言って手を差し伸べた。その手はピアノ奏者に相応しく長い指は繊細に映り、所作も泰然としていて無駄な動きがなく美しかった。そこに主人を敬う慇懃だが柔らかな眼差しが存在していた。上質でありながら嫌味のないささやかな微笑が可憐に光る。
伯父が運んできたこの“贈り物”は魔性だった。爪先から頭の天辺まで何の欠点も見当たらない。均整の取れた見事な長身。金糸のように艶めくしなやかな髪。端正な顔立ちに並ぶ涼しげなグレーの瞳。それはまるで息を飲むほどの美貌だった。美しいものを好むブラッドは、魔法にかけられたように彼を拒絶する言葉など出なくなる。
「気に入ったようだな」
伯父はしたり顔でそう言うと、その贈り物を残して部屋から出て行った。
そんな出会いから今に至る。そして例の怪しい伯父リチャードだが、彼の言動はやはり不審だった。執事を任されたフランシスに、ブラッドの送迎や過度ともいえる護衛までも義務付けたのである。父の不幸を理由に、身辺の厳重な注意を促す伯父の説得に折れたブラッドは、仕方なくそれに従うことにした。先程はその業務の一環である送迎に、フランシスが向かう途中に遭遇した出来事だったのだ。
「だけどさっきは驚いたよ。何で僕があの通りで寄り道してるって分かったの?」
ブラッドは少し面白がるように笑みを浮かべ、隣の執事に伺うような眼差しを向けた。
フランシスは運転に神経を働かせながら、動じることなく答える。
「勘です」
「勘……?」
その答えにブラッドは小首を傾げた。そして俄かに眉を潜める。人からそんなことを言われると何だかおかしかった。ブラッドは自分の持つ“直感能力”も他人からすればこんな風に疑わしいことなんだろうなぁと自嘲した。そして表情を真顔に戻し、言葉を紡いだ。
「さっきの少年のことだけど」
そこで含ませるように間を置いてから彼は続けた。
「彼は……出会ってはいけない人間だったんだ」
「……」
フランシスは前方を向いたまま、そこでは何も問いかけなかった。ブラッドも前方を向いたままドアの手摺に肘を乗せ、景色に目をやりながら言葉を継いだ。
「お前の事を信頼して話すけど……彼は、あの少年は僕にとって“特殊”な存在らしい」
何か遠まわしな言い方をする主人に、やっとここでフランシスが疑問を投げかけた。
「とおっしゃいますと?」
ブラッドは笑みとも困惑ともとれない、名状しがたい複雑な表情をしてそれに答える。
「彼は僕と同一形体の人間らしい」
「双子ではないのですか?」
フランシスは抑揚のない声でさらに問う。
「よく分からないけど、全く同じ形の者同士みたいなんだ」
それが意味するのは二人が、またはどちらかが人工的に作られた存在――クローンだということなのか、それとも……
「何故そのようにお思いになるのですか?」
フランシスはあくまでも冷静にそう聞き返す。彼は主人が妄想めいた話をしても、決してそれを軽く受け流すような人間ではなかった。
「父の遺言なんだ」
ブラッドは微笑してそう答えた。フランシスは「そうでしたか」と静かに頷き納得する。
「フランシス」
「はい」
「僕はその少年にとって目障りな存在のようだ」
「……」
「僕は彼に命を狙われている」
ブラッドは落ち着いた声音でそれが確かなことのように告げた。
だが、起こるべくして起きた事実とこの後待ち構えている災難に怯懦しているのが、彼の茶色い瞳に表れていた。フランシスは彼が醸し出す空気の違いから、その胸中を察した。
「ブラッド様」
その声が羽毛の柔らかな心地良さでブラッドの心を包み込む。
「私があなたをお守り致します。この命に代えても」
その一言は穏やかなその声音とは裏腹に、強い意志が込められていた。
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