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Scene4.『失墜の夜想曲』
屋敷に戻るとブラッドは自室の机のオフィスチェア(イス)に座って一息吐いた。だらんと背凭れに身を預けて頭を後ろにもたげる。間もなくしてそこにノックが響いた。
「お茶をお持ち致しました」
フランシスの声だった。ブラッドが入るように促すと、お茶のポットや食器を乗せたワゴンを押してフランシスが入室した。
「お前は本当に気がきくな」
ブラッドは頭を後ろにもたげたままの状態で、目玉だけを動かして呟いた。フランシスが適当な所にワゴンを止めて支度に取り掛かろうとすると、ブラッドが腰掛けた椅子が軋む音を立てた。咄嗟にフランシスがその背後に手をかざす。こうしてひっくり返りそうになったことが何度かあったのだ。ブラッドは呑気に天井を仰ぎ見ている。
「あまり反り返ると、落ちますよ」
フランシスはあくまでも穏やかに嗜めるが、ブラッドは無邪気に笑い
「落ちそうになったら、お前が助けてくれるだろ?」と伸びをした――その途端
「わぁ……っ!?」
目の前の景色が大きく揺らぎ、ブラッドは後に迫る衝撃に目を見張った。「……?」
が、その衝撃は訪れなかった。しかし椅子ごと後ろに倒れた状態になっていた彼は、そこから立ち上がり後ろに回り込んだ。
「……フランシス! やっぱりお前は守ってくれたね?」
感嘆の声を上げ、ブラッドは後ろで支えてくれた執事に飛び付いた。執事のフランシスはやれやれと困ったように微笑しながら椅子を起こす。
「気を付けてください」
苦々しげではなく穏やかに諭すその声にブラッドは「は〜い」と素直な返事を返し、椅子に座り直した。
フランシスがお茶の支度に取り掛かる。彼はティーポットにスプーンで茶葉(ハーブ)を入れ、そこに沸騰した湯を注いだ。蓋をしてしばらく蒸らしてからそれを水平に回し、静かにティーカップに注ぐ。その中に蜂蜜を垂らしてかき混ぜ、ソーサーに乗せたものを主人の机に運んだ。
「良い薫りだ……」
湯気が立ち上ぼるカップを手に持ち、ブラッドはその馥郁に酔い痴れた。「今日は何のお茶?」
「レモンバームとミントをブレンドした物でございます」
「そうなんだぁ……」
ブラッドはすっかり寛ぎ、その風味を味わう優雅な一時が流れ、そこに安息が生まれた。
「フランシス」
「何でしょうか?」
ふと主人に呼ばれ、フランシスは片付ける手を止めて彼の方を向いた。
「ピアノを弾いてくれないか?」
「……」
唐突なその言葉にフランシスは表情を失った。それは戸惑いとも、驚きとも違うものだった。
「まだ、聴かせてもらったことがなかっただろ。急に聴いてみたくなったんだ。寝る前にちょっとだけなら、いいだろ?」
主人の謙虚な頼みに、僅かに間を空けてからフランシスは承諾した。
「そうでしたね。分かりました」
「本当? じゃあ広間で待ってるから」
ブラッドは感嘆の声を上げ、表情を輝かせながら部屋を出て行った。
広間にはグランドピアノが置かれていた。誰も弾かなくなったそれを覆う白いレースのカバーは、だいぶ色がくすんでいる。それを外し蓋を開くと、ブラッドの胸に懐かしさが込み上げてきた。
「うわぁぁ、懐かしいなぁ……」
感嘆の声を漏らし、鍵盤を愛しげに指で触れる。ドの音が鳴った。次々に他の鍵盤も押してみる。重たい反動が指に返ってきた。この感覚に覚えがある。短く突き抜けるような音色も当時耳にした音を髣髴とさせ、未だ色褪せておらず彼を誘惑した。
「……」
ブラッドは椅子に腰を下ろし、いつしか演奏を始めていた。子犬のワルツ――それを弾いていた。強弱を付けて鍵盤を叩き、その旋律に乗って体を揺らす。心地よかった。練習は嫌いだったが、この曲を弾いているとなんだか楽しくなる。その瞳に満足げな笑みが浮かぶ。しかし途中で人が来る気配を感じ取ると、彼は気持ちの良い流れに乗って演奏を短縮し、子犬が跳ねるように軽快に和音を叩いて締めくくった。そして首を巡らせると、フランシスが歩み寄って来るのが見えた。
「ブラッド様もお弾きになるのですね。お上手でした」
「恥ずかしいなぁ、下手なのに……」
賛辞の言葉を述べられたブラッドは複雑な苦笑を浮かべ、椅子から立ち上がった。
「次はフランシスが弾いて」
彼は掌を差し出して、椅子に座るようにと執事に促す。執事は目を丸くした。
「もう演奏なさらなくてもよろしいのですか?」
「いいよ、僕の下手な演奏をあまり聴かれたくないし、それより早くお前の演奏が聴きたい」
「わかりました」
感情の読み取れない声で言って、フランシスは主人の座っていた椅子に腰掛けた。
ブラッドはそばにあった安楽椅子に腰を下ろすと、肘掛に頬杖を突いてそこから興味深げに執事の演奏を見物することにした。彼の熱い視線がフランシスに注がれる。伯父の話ではプロに匹敵すると言っていた。フランシスがどんな演奏をするのか気にならないわけがなかった。彼自身才色兼備ともてはやされてきたブラッドだったが、それ以上のものを兼ね備えているこの執事に対して、彼は嫉妬ではなく期待を高めていた。
フランシスの長い指が鍵盤の上に置かれ、垂直に伸びた背筋と引いた顎が、演奏に入る瞬間の緊張感を醸し出す。その指が羽ばたくように鍵盤を離れ、ふわりと優雅に着地した。
静かな演奏が始まる。鍵盤の上を繊細さと重みの調和した旋律を奏で、長い指が生き物のように動く。ブラッドもどこかで耳にしたことがある曲だった。長く華麗に見えた指は、鍵盤を叩くと男性的な力強さも同時に醸し出していた。執事の奏でる美しい音色にブラッドは陶酔し始め、いつしか瞼を閉じていた。母の演奏するピアノの音色とは別質のものだった。まるでピアノという鍵盤楽器を通じて、演奏者の心の中に入っていくような不思議な感覚が生じる。執事――フランシスの心の声が旋律に乗せて聞こえてくるようだ……
ふとフランシスの指が鍵盤から離れた。彼は演奏を止め、椅子から立ち上がる。
「どうしたの?」
ブラッドが問いかけ、不思議に思いながらその様子を見ていると
「ファの音が鳴らないので」
フランシスは前方に回り込んで蓋の中を覗いた。
「ああ、やはり弦が切れていたか……」
残念そうにそう呟く。
「いいよ気にしなくて。一つぐらい音が抜けてても僕には全然気にならないし」
「……」
主人の気遣う言葉にフランシスは表情を失くし、沈黙した。それから席に戻る。
着席した途端、彼の眼差しが鋭く光った。そして再び魂が吹き込まれたかのように、彼の指が優雅な舞踏を始めた。
彼は同じ曲を今度は変調して弾きだした。ブラッドはその演奏に驚嘆し、目を見開く。その巧みな奏法に彼の意識はぐいぐいと引き込まれていった。
「すごいね! 咄嗟にそんなことができるなんて」
しかしフランシスは愕然として悪態をつき――
「だめだ……!」
無造作に叩いた鍵盤が不協和音を奏でる。
「フランシス?……」
見たこともない彼の荒れた言動に、ブラッドは唖然とした。
「こんなものはフォーレの“夜想曲第1番変ホ短調”なんかじゃない!」
それから彼は、また別の曲を弾き始めた。が、どことなく納得がいかない表情をしていた。
「次は何の曲?」
連弾のように音の幅が広い演奏を見てブラッドは呆気にとられる。
「ドビュッシーの“夢想”を即興でアレンジしたものです」
「そうなんだ……」
普段とは別人のように神経質になり、殺伐としているフランシスに圧倒され、ブラッドの口数は減っていた。
間もなくしてフランシスが演奏をやめ、蓋を閉めた。
「やめちゃうの?」
「直してからにしましょう。これではお聞かせできるような演奏はできませんので」
今ので充分圧巻の演奏を聴けたのに、とブラッドは少し残念に思った。
普段の笑顔が戻ったフランシスに問う。
「何でこんなに上手に弾けるのにピアニストにならなかったの?」
「手が駄目になったんです」
首を傾げるブラッド。
「がむしゃらに練習しすぎて腱鞘炎になり」
「ごめん、それなのに弾かせたりして……」
申し訳なさそうに哀しい表情をした主人に、フランシスは「いいえ」と頭を振った。
「気になさらないでください。多少であれば平気ですので。“ショパンのエチュードOp.25−10”などは無理が生じますが」
「そう……ならいいんだけど」
「少し気分を変えてお茶にしませんか?」
「うん、そうしよう」
フランシスがベルを鳴らし、メイドが現れる。
「ごめん、何でもない。下がって」
断りを入れた主人をメイドとフランシスは不思議そうな顔で見詰める。
「分かりました」
困惑しながらメイドは引っ込んだ。
「どうかなさいましたか?」
フランシスが問う。
「いや、そうじゃないんだけど……その、お前が選んだお茶が飲みたかったから」
ぼそっとそう言った主人に、フランシスは目を丸くした。
「分かりました。では少々お待ちください」
そう告げてフランシスは広間を辞した。
やがてお茶を乗せたワゴンを転がして戻ってくる。
「ありがとう、フランシス」
「いいえ、どういたしまして」
主人の労いの言葉にフランシスは微笑で答えた。ブラッドは表情を生き生きとさせながら茶器を眺めている。フランシスは美しい所作を保ちながら、主人にお茶を出した。
「これは何が入ってるの?」
一口啜り、香りを堪能してからブラッドが言った。
「ローズヒップやハイビスカス、オレンジピールなどをブレンドしてみました」
「だからかぁ、仄かにオレンジみたいな薫りがすると思ったんだ」
「気に入っていただけましたか?」
「うん、気に入った。やっぱりお前に選んできてもらって正解だった。丁度今の気分にぴったりだよ」
「ありがとうございます」
フランシスは軽く目を細め、柔らかな微笑をした。
「お前は本当に非の打ち所がないな。結婚してもずっと側に置いておきたいよ。女だったら結婚したいぐらいだ」
「是非ブラッド様が望む限り、お側で仕えさせてください」
恭しい受け答えをし、フランシスは茶器を整頓する。
「ところで、いつからピアノを習い始めたの?」
その問いかけにフランシスは瞼を伏せた。シャンデリアの光を浴びた長い睫が、下瞼に影を落とす。過去の記憶をたどるように僅かな間を置いてから、彼の口が動いた。
「歩けるようになった頃には、母と一緒にピアノの椅子に座らされていました」
「そんなに早くから? それじゃあ二歳か三才頃かな?」
「ええ、多分」
「それじゃあお母さんにピアノを習ったの?」
「はい」
「そうなんだぁ。じゃあ、お母さんはピアニストだったの?」
フランシスは頭を振った。
「いいえ、母はピアニストを志していましたがそれは叶わず、その夢を息子の私に託したのです」
「そうだったんだ……やっぱりプロになることは厳しいんだね」
ブラッドがそう言った途端、フランシスの目が鋭く光った。そこに一筋の雷光が落下したようだった。
「いいえ、母はピアニストになることを約束されていました。しかし、たった一度犯した過ちが原因で総てを失い、その道は閉ざされてしまったのです」
「どんな過ちを犯したの?」
ブラッドは慎重にそう問いかけた。彼の茶色い瞳に緊張が迸る。それが重大な事柄を表すということが分かるのに、次に発する言葉の意味を悟れないのは極めて珍しいことだった。フランシスの思考はまるで鉄壁で固められた城砦のようだった。ブラッドの持つ“直感能力”ですら見抜けないほど頑丈な。
そのフランシスの口が動き、その答えが紡がれた。
「婚約者とは別の男性にたぶらかされて恋に落ち、子を孕んでしまったのです」
「……」
何と返せばいいのかわからず、ブラッドは黙ってその話に聞き入った。
「婚約が決まっていた相手は、オーケストラを抱える音楽企業の重役で、母を新設するオーケストラの一員として迎える話が進んでいました。それが婚約が破棄されると同時に、相手に社会的な損傷を与えたとして名誉毀損で訴えられ、さらには今後発生するはずだったコンサートの報酬、そのキャンセル料などを加えた損害賠償、合計500万ポンドの支払いが請求されてしまったのです」
「500万……ポンド?」
「その破格の賠償金は支払えず、母を音楽業界から永久追放することで示談が成立しました」
「500万ポンドと引換に? お母さんはそんなに凄いピアニストの資質がある人だったの?」
「……十二歳の時ビーチャムという有名な指揮者を唸らせたという話は聞いております。十年に一人の逸材だと言われたそうです」
そう言ったフランシスは苦笑し、その笑みを見たブラッドは戦慄した。フランシスの美しい瞳に見たこともないものが映っていたのである。それは不純物のない純粋な悪の結晶とも呼べる宝石の輝きだった。そこに決して覆せない強い意志と決意が蓄積され、おぞましいほどに深みを帯びながら瞳の奥で息づいている。同時に体中を強く締め付けられるような哀しみがそこに浮かんでいた。
「それから母は両親から絶縁され、僅かな所持金だけ渡されて家を追い出され、生活は地に落ちてしまいました。――そうなれば後はどうなったか察しが付くでしょう。幸いにも容姿に恵まれていた母はその身を商売道具に換えました。あの悪の元凶である男と同じように、今度は自分が男性をたぶらかし……」
フランシスは感情を溜め込むように、一旦そこで言葉を切った。その口がまた開かれ、彼は言葉を継いだ。
「――負の連鎖です」
「!?」
ブラッドの目の前を先程と同じ魂の激情を示す見えない雷光が迸った。
「母は自分を欲するハイエナから集めた金でピアノを買い、狂ったように私に教え込みました。六才までに『エリーゼのために』、九歳までには『バッハの前奏曲とフーガ』を習得させ、私が学校にいる時以外の総ての時間をその練習に当てさせ、夜は酒場で働くという日々が続きました。しかし生活は向上せず、母はしだいに精神が不安定になっていきました。そんな中で唯一母を笑顔にさせることができたのが、母の教えてくれた通りに私がピアノを弾くことでした。その時だけは最高の笑顔で喜んでくれたのです。そのため、私は母が笑顔になれるように、ひたすら弾くことを続けました。
しかし段階が進むに連れて母の目はどんどん厳しくなり、私は見えない霧の中を彷徨う遭難者になってしまいました。母が積み重ねてきた二十年というピアノの歴史を十年そこらで何を受け継ぐことができるのかと対立することもありました。しかしその感情は自分に対する不甲斐なさであることに気付いてから受け止められるようになり、母を師と思い、そのやり方に従うようになりました。
やがてその日々がようやく報われる、そう思える日が訪れました。ある時母が働いていた店の客の紹介で音楽業界に顔が利く男性と知り合い、私をレコード会社に紹介してもらえることになったのです。そして幸運にも契約の話が進み」
「凄い、それでどうなったの? CDは出したの?」
救いとそこに希望を見出し、ブラッドの瞳は明かりを点した。その返答にフランシスは頭を振った。
「いいえ、残念ながらそれはできませんでした。契約が決まった翌日その会社から電話があり、契約が無効になったことを告げられ」
「何で……!?」
「そこにも母のもと婚約者の手が回ったのです。その業界を永久追放された責任は息子にもあるということでしょう」
「そんな……」
フランシスは微笑した。それは自分自身をも嘲笑うような皮肉とも言える笑みだった。
「相手が悪すぎたようです。そうやって弱者は強い者の前に成す術もなく、簡単にその才能を潰されていくのでしょう。
そうなってから母は燃え尽きてしまったかのように、その日から何もしなくなってしまいました。私が弾いたピアノの音にも全く関心を示さなくなり。働かなくなった母に代わって生活を支えるため、私はピアノに費やしていた時間をアルバイトに当てるようになりました。 こうして私達の生活場所からピアノの音は消え、廃人のように変わり果てた母親との暮らしが始まりました。生きる気力をなくし、ほとんど動かなくなってしまった母が時折ベッドから起き出した時にだけピアノを聴かせてみましたが効果はなく、母は抜け殻そのものでした。やがて母は音だけでなく光をも拒むようになり、家の電気は小さな裸電球の灯火を照らすだけの隠れ家に住んでいるような生活になりました。私はほとんど仕事先と学校を往復する多忙な日々が続き、ある日のことでした。明朝、呻き声を聞きつけて私が目を覚ますと、母が顔を押さえてもがき苦しんでいたのです。電気を付けて見てみるとその顔はどす黒く染まり、見たこともないほどの異常をきたしていたのです。救急車に乗せて病院に搬送したものの、病状は手の付けられないほど悪化していました。
そしてその結果母は……その日、息を引き取りました。原因は今となっては珍しい、鼠による伝染病、ペストと診断されました」
ふとフランシスが壁かけ時計に目をやる。「あぁ、大変だ。もうこんな遅い時間に……ブラッド様、遅くまで私の長話にお付き合いさせてしまって申し訳ございません」
「そんなことない」
ブラッドは頭(かぶり)を振った。
「辛いことまで話してくれてありがとう。そのおかげで、お前との距離が今までより近付けた気がするよ」
ブラッドは胸の内の闇を解き明かしてくれたことと、ひと時の安らぎを与えてくれた執事に感謝するように微笑した。
「ブラッド様……」
感銘を受けたフランシスの口から、思わず主人の名が零れる。
「じゃあ、おやすみフランシス」
余韻を残しながらブラッドは部屋を後にした。
夜も深まり誰もが寝静まるころ、月明かりにうっすらと浮かび上がる影があった。
男性である。黒いレザージャケットに黒いズボン、と全身を黒一色で固めている。彼は室内にあるクローゼットに歩み寄り、戸を開けた。ハンガーにかけたズボンやジャケットなどを掻き分け、その奥へと手を突っ込む。そこにあった靴屋の袋の中から箱を取り出して蓋を開け、その中からフック付きの紐を取り出した。それを絨毯の上に置き、箱などを元の場所に戻す。そして紐を拾い上げると窓の淵に紐のフックを引っ掛け、おもむろに彼は背後を顧みた。
「お許しください、ブラッド様……」
そう呟くと彼は紐を使って窓から飛び降り、闇の中に姿を消した。
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