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01
「また外した……」
ここはとあるカジノバー。あと一つ絵を揃えられず、スロットマシンに舌打ちする女性の姿があった。青色のワンピースに似た丸襟のドレストレンチを着て、付属のベルトを腰でリボン結びにしている。金髪の背中にまで届くロングヘアに、活発そうに生き生きと輝くブラウンの瞳と艶やかなピンク色の唇は、可憐かつ、か弱い人形のように繊細だ。
一見して美女。その横から覗き混む、革のジャケットにデニム姿の若い男性は恋人に見えるはずだ。
「何でタイミングを合わせないんだ?」
まるで出来て当然のことができなかったかのような口振りだった。男性のその少し意地悪な問い掛けに女性は皮肉を返す。
「ほどほどにしておかないと出禁になるからね」
「ぎりぎりまでねばるつもりか?……勝負師だな」
男性は軽く笑った。それには悪戯な意味が込められていた。
女性の換金したコインは残り少ない枚数になっている。しかし、二人に焦りの色は見られなかった。それどころか、余裕すら感じさせる。
女性がコインをスロットに投入した。回転を始めると柄が一本の筋に見えてくる。時々見分けが付くが、視覚から動作へと脳が伝える信号は同時にはできない。そしてこのスロットマシン自体にも癖があったりするから厄介だ。
「早く押せよ」
意識を集中させ、なかなかボタンを押そうとしない女性を見て、逸る気持ちを抑えきれなくなった男性が急かす。女性は何も答えずにリズムの狂った不思議なタイミングでボタンを押した。
横一列にチェリーの絵が並んだ。それを見た男性の片方の口角が僅かに上がったが、二人は無言でとくに何の反応も示さない。
再び女性の手が動いた。一瞬と言っても良いだろう。彼女の視覚が動きを捕らえ、同時に手がタイミングを計ってボタンを押していた。
「またチェリーか?……もっと別のを狙えよ」
男性の脱力したもどかしそうなヤジが飛ぶ。適当にも見える動きで女性の手がボタンを押した。
中央、右端、左、左端、右――回転するバーが押した順に速度を緩めて行く。
揃った。横一列の王冠の絵。それを見た男性の瞳が輝いた。
「よ――しっ! いいぞ、次は7かBERだ!」
すっかり興奮した男性は急き立てるように叫んだが
「や〜めたっ」
「え? 何でやめちゃうんだよ!」
期待を裏切るような女性の言動に愕然となり、男性は情けない声をあげた。それを気遣うこともなく、弄ぶように女性は微笑する。その小悪魔的で小憎らしい笑みを見て、両掌を天井に向けてやれやれと嘆息を漏らす男性は、こんな彼女の気まぐれにも実は慣れていた。
「お次はどうします? エリン」
立ち上がった彼女のイスを引き、紳士の所作を真似て男性が言った。
「エリン……? まぁいっか」
疑問符を浮かべながらも納得した彼女の名は――エリンではなかったが、とりあえずそういうことにしておいた。
「ルーレットでもやる?」
「だめだ。それじゃ、ただの“ギャンブル”にしかならない」
彼女の提案に断固として彼は反対した。スロットをしておきながらよく言うなと思うかもしれないが、理由があるのだ。それはエリンに関係していた。
「酒でも飲むか」
フロアの中央に設けたカウンターには、白いウイングカラーのシャツに蝶ネクタイを締め、黒のベストを着た寡黙な男性バーテンダーが食器を磨いていた。客の一人が彼に向かって大袈裟な身振りで武勇伝を語っている。その横にいる男性は隣りの女性を熱心に口説いていた。
「やめとく。飲むと吐くから」
その光景を遠目に見ながら、エリンは怪訝そうに眉を寄せて首を横に振った。実際に吐くまで飲んだことはなかったが、まだ酒が美味しいと感じる域に達していない。あの苦みがどうしても好ましく思えなかった。
「じゃあ、ポーカーだな」
企むような笑みを浮かべ、男性がエリンの肩に手を置いた。カウンターの横を二人が通過する時、女性を口説いていたはずの男性がエリンに目移りしたのは、若い男性にありがちな性(さが)だろう。
「うっ……」
ウインクまでされて思わず顔を歪めるエリン。
「具合悪くなった……」
連れの男性もその様子を目撃するが、彼女を気遣うことなく笑った。
「そんな悪くなかったと思うけどな〜、結構ハンサムだったし」
語尾に嘲笑が混じっていた。
「やぁ、お譲ちゃん。随分とツキが回ってるみたいだな」
ふと彼らの目の前にゼブラ・ブロンド(褐色混じりの金髪)の男性が現れた。光沢のある紫色のシャツ、黒いフェイクレザーのズボン、ポインテッドトゥの白い蛇皮の靴が妙にいやらしく、エリンは怪訝そうに眉を潜めた。
「うっ……相変わらず派手な奴」
趣味悪い……毒蛇か? その顔に見覚えがあった。そして早急に立ち去りたかった。
「こんな所で何してる?」
威圧的に見下ろす彼の視線にエリンは顎を引いて目を逸らす。
災難だった。どうしてこうも自分の命運は平均して一定なのだろう。一日がラッキーだけで終わったためしがない。せっかく娯楽のひと時を謳歌し、快哉の一日を過ごせたと神に感謝するはずだったのに……台無しだ! 心の中でぶつくさ文句を言い、舌打ちするエリンであった。
「お子ちゃまは、さっさと家に帰ってねんねしな」
男性が詰め寄り、耳元で囁く。
「“イカサマ”なんだからよ」
「!?」
カチンときたエリンは絞め殺さんばかりの衝動に駆られる。拳を堅く握り締め、掌には爪が食い込んでいた。本来、穏和な性格の彼女は動く一歩手前で自己を抑制し、理性と狂気の葛藤を繰り返す。
腕力では敵わない。かといって……こんなに笑顔がムカつく奴はいない! 一発ぐらい“お見舞い”してやってもバチは当たらないはずだ。
エリンは彼ににじり寄った。
「何だ。やるか?」
彼からブルガリ・プールオムの香水が匂い立った。それは女を引き寄せるフェロモンのように空気中を彷徨する。大胸筋を覗かせるシャツの下で首にぶら下がる金色のチェーンネックレスは、盛りの付いた獰猛なドーベルマンに高級な首輪を嵌めてやったみたいだ。
彼の成す総てがいやらしかった。言動、服装、趣味、総てに嫌悪する。見ているだけでも不愉快だったが、黙ってこのまま帰るわけにはいかない――“イカサマ”だと言われたことだけはどうしても許すことができなかった。
「……っ」
殺気立つエリンの髪が文字通り逆立ちそうになる。連れの男性はその心中を察していた。
「帰ろうぜ……」
彼女を制するその声には疲れの色が混じっていた。気怠(けだる)い表情からもすっかりさっきまでの熱が冷めてしまったと窺える。揉め事を起こすまいと彼女の肩に触れる手に、少しずつ力が加わっていった。
男性がエリンに歩み寄る。警戒したエリンは後退した。
「なかなか上手くなったな」
彼女の髪のフロント部分を掻き分け、額を覗かせる。
「ぅわっ!」
エリンは慌てて額を隠し、頭を押さえた。
「ふっ……」
男性は傾けるように顎を上げ、斜め上から蔑むように彼女を見下ろし、悪気たっぷりな笑みを見せた。
「だが、この程度じゃあバレバレだ。入口で止められなかったことは褒めてやるが、オレにはガキにしか見えない。もっと研究してオレにもバレないようにしろ。騙すなら、まずは“身内から”って言うしな」
「……!」
“身内” こいつ〜〜っ!? 悔しさでエリンの眉間に皺が寄り、普段は決して見せないような形相になった。ふつふつと込み上げる怒り、簡単に見破られたことへの屈辱が、行き場のない感情の渦となって彼女の中に蓄積されて行く。自制という名の防波堤には既に大きな亀裂が生じていた。
こんな奴が……! 何よりも、思い返すことすら身震いする事実があった。それを知った時、耳は塞ぎ、目は覆いたくなるような極度の悪寒と拒絶反応が巻き起こった。しかし、その事実は永遠に変えられぬことだった。
『死ぬまで変わらない“刻印”』――とエリンは解釈する。
「家までちゃんと帰れるか? お兄さんが送ってあげまちょうか〜〜?」
どこまでもしつこい彼の挑発だった。完全にエリンを煽ることを楽しんでいるとしか思えない。
「っ……!?」
エリンは攻撃する代わりに鋭く彼を睨み返した。
「相手にするな」
連れの男性が嗜め、引きずるようにエリンを誘導した。
「偉そうにしやがって……」
引きずられながら遠ざかる男性に向かって
『ファック・ユー!』
立てた親指を首を刎ねるように横に引き、力を込めて胸の前で垂直に下ろす――憎しみを込めた反撃のサインだ(※絶対に真似してはいけません)。
出口へ向かうにつれ、店内に流れるジャズのBGMも遠ざかる。ジャズピアノが短く上品にトリルした。サックスのビブラート、コントラバスの緩やかなベース音が混ざり合い、大人のムードで誘惑した。
「っっっ……」
その音を背に、込み上げる怒りを堪えながらエリンは肩を震わせていた。 二人は地下にあった店を出るとエレベーターで地上に上がり、屋外の駐車場へと向かった。
途中、エリンの怒りが爆発する。
ほんの息抜き程度に来ただけなのに。
荒稼ぎしていたわけでもないのに。
何で追い出されなきゃいけないんだ!
これじゃ余計ストレスが溜まっただけじゃないか〜〜っっ!?
「あぁ〜〜くそ!」
一言では言い尽くしようのない憤りに、ただ一声上げ、頭をくしゃくしゃにするエリンだった。
「ははは」
連れの男性は乾いた笑い声で受け流す。
連れの男性が乗り付けてきた車(ジャガー)の鍵を開けると、すぐさまエリンは後部座席に陣取った。
「やってらんないぜ!」
と勇ましい勢いで、髪を鷲掴みにむしり取る。と金髪の下からココア色の髪が現れた。
「そのメイクで外すと妙だぜ、“レッド”」
男性がバックミラーに目をやった。後部座席に腕をかけて車をバックさせ、ハンドルを素早く切り返しながら苦笑する。
「……」
むくれた表情で黙り込むのは――
エリンではなかった。金髪の女性を演じていた“レッド”という――少年だった。
地面を揺るがす唸るようなエンジンの低音を轟かせ、男性は豪快にジャガーを発進させた。
「思い出しただけで腹が立つ!」
触発されたようにレッドも唸る。
「そう熱くなるなよ。下手なジョークを言われたと思って聞き流してりゃいいんだ、あんなのは」
ハンドルを握る男性はあくまでも穏やかに嗜める。レッドとは同業者(ファミリー)の彼はエリックといい、満十七歳のレイト・ティーンだ。五歳下のレッドのことは生まれたときからよく知っている。さっきの男性を毛嫌いする理由もだった。
「あんな奴が親戚だなんて……クリザリング家は呪われてるよ」
冗談とも本気ともとれる皮肉を吐くレッド。彼は頭を振りながら、後部座席の窓を数センチ開け、そこから流れ込む風で気を静めた。
直線道路に入るとエリックはギアをチェンジした。猛獣が荒い鼻息で威嚇するようにエンジン音を轟かせ、一気にジャガーは加速した。時速九十キロをメーターが振り切り、レッドの髪が一気に後ろに煽られる。エリックは気持ち良さそうに雄叫びを上げた。彼にこの道路は短かすぎる。アメリカのハイウェイぐらいないといけないなとレッドは思う。
高速の夜風に吹かれ、完全冷却された髪が落ちる間もなく、しきりに揺れていた。その下の肌も冷たくなってきたので、レッドはボタンを押して窓を閉めた。
先程衝突していた男性は彼らと同業者で、別の一家(ファミリー)のボスの息子だ。そのファミリー(犯罪組織)は頭脳派で、詐欺師集団として地味に活動している。法をかい潜るためだけに法律を学び、政治家などの闇金を動かす橋渡し役として影に君臨し、活動は他犯罪組織との共存を図るため、制限していた。そのファミリーの中で彼はガンマン、詐欺師などのスカウトマンを任されていた。才知に恵まれず、銃の腕にも乏しい彼に唯一与えられた情けの役目と言ってもいいだろう。
しかし、それが功を奏したのか、彼が見付けてきた人材は優秀な人材ばかりだった。その彼が次なるターゲットに選んだのが“レッド”なのだ。
レッドより十歳以上も年上の青年――“ウォルター”、それが彼の名だった。
彼とレッドが出会ったのは、とあるバー……
<二年前>
エディンバラの町外れにある白塗りのプレハブ小屋に簡素な看板を下げただけの造り。その店の片隅で四角い木製のテーブルを囲んでトランプをする連中の姿があった。
「くっそ〜〜やられた!」
「まったく、お前は末恐ろしいガキだなぁ、レッド」
大の大人達が観念して唸り声を上げている。その中にあどけない一人の少年が混ざっていた。一見して普通の少年だったが、同席する大人達は柄が悪く、どこかうさん臭い連中ばかりだ。ベージュのテンガロンハットを被った男、葉巻を咥え、わいせつな英単語をプリントしたTシャツを着た男、無精髭を生やして黒いニット帽を被った男。配色こそ目立たなかったが、そこだけ異質で近寄りがたいオーラのようなものを発している。
「いらっしゃいませ」
ドアベルの鳴る音が店内に響き、一人の客が訪れた。赤いシャツにジーンズ姿の若い男性だった。
髭面のマスターのよそ者を訝るような眼差しが光る。男性はわざとらしく金色の髪を掻き上げ、左手首に填めたゴールド加工の時計を閃(ひらめ)かせた。
『金ならあるぞ』
の主張だった。
「ふん」
マスターは鼻を鳴らし、彼から目線を外す。男性はカウンターの空席に腰を下ろし、ダイキリを注文した。店内には聞いたこともないBGMが流れていた。ウクレレに似たエレキギターの軽快な旋律に乗って男性がコミカルに歌っている賑やかな歌だ。
「兄ちゃん!」
突然、テンガロンハットを被った男性が彼に声をかけた。手招きされ、仕方なく若い男性――青年は席を立つ。
「そいつを後ろから見張っててくんねぇか。もし、小細工でもしたらすぐに教えろよ」
わけも分からず少年の後ろに立たされる。同席の大人達の表情は真剣だった。子供相手に何をそんなに向きになる必要があるのかと半ば呆れる。
しかし、不可思議な現象を次々と目の当たりにした。
「おい、兄ちゃん。ちゃんと見てたか!?」
「あ、ああ……」
少年は延々とゲームに勝ち続けたのである。何度見ても細工らしき疑いは確認できなかった。まるで機械のように、数学の公式を解くように、相手が出す手札が何であるかを導き出しているようだった。その的中率は相手が負けを重ねるごとに上がっていく。
――読心術が使えるのか?……
青年はそんなことを思ったりもしたが、予想するにもトランプでは種類が多いため、特定しずらい。訝りながらテーブルの下を覗いてみるが、隠しミラーなどの細工などはいっさい見られず
「何してるの? お兄さん」と無邪気な笑顔を返されるだけだった。
この出来事は青年“ウォルター”の脳裏に強烈に焼き付いた。少年“レッド”の持つ未知なる能力と可能性に彼は完全に魅せられてしまったのである。
一方、当人のレッドはというと、この時の記憶は極めて薄かった。青年がどんな顔をしていたのかも全く気にも止めておらず、思い起こすことすらなくなっていった。
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