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マリアの論文
ジンノ大佐の足は順調に回復し、普通に歩けるようになった頃。
11番目の砦まで敵が来る事は少なくなってきた。
その日は演習も無く、完全にオフの日。
砦兵達は各々自由な時間を過ごしていた。
プレイルームは広く、バスケやでボルダリングで汗を流す者、談話スペースでボードゲームやカードゲームで遊ぶ者と様々だ。
「あああ、また負けた!」
そう言って、キラは拳を握りしめる。
それを見て、俺は不敵な笑みを浮かべる。
「フッフッフッ……」
目の前にはほぼ真っ白になっているオセロボードがある。
この手のゲームは自信がある。
「よし、次は卓球で勝負だ」
「フフ、俺レベルになるとな、汗ばむようなスマートでない勝負はしないもんだ」
それを見ていたタカヤが口を挟んでくる。
「マリアさ、もしかしたらかっこよく言ってるつもりかもしれないけど、ただ下手くそなだけだからな」
「うるさいぞ。そういうのは一度でも俺に勝ってから言うんだな」
「それアームレスリングで同じ言葉返してやる!」
「タカヤやめろ、マリアちゃんの細腕が折れるじゃないか」
「細腕って言うな」
タカヤが俺の腕を掴んで言う。
「でも確かにマリアの腕ってほっそいよなー。ライフル撃ったら腕の方が破壊されそう」
「そこまで脆くないぞ」
「見ろよ、俺の腕!」
そう言って、タカヤは腕を曲げて上腕二頭筋を見せつける。
「俺だってな、それは負けねぇ」
キラは椅子に立ち、手首を握りサイドチェストポーズを取った。
腕の太さと大胸筋の厚みが強調される。
多分、頭の中も筋肉でできてる奴ってこういう感じなんだな。
さらにキラは背中を向け、力を入れて腕を曲げた。
ええと何だっけ、確かバックダブルバイセップとかいうポーズか。
「俺はかつて戦場の獅子王と呼ばれていた! 愛するアンジーちゃんを守るため、俺は強くなったのさ」
いつもの病気が始まった。
「しかしだ、アンジーちゃんにはヒーローがいて、俺は手が届かぬ孤独と戦いながら日々力を溜めていたのだ」
まぁ、二次元に手は届かないよな。
負けずとタカヤが拳を天に挙げる。
「俺は疾風の雀蜂だぜ!」
何だよそれ。
いつも収集をつけてくれるヒロは、今日は本部に行っていて不在だ。
ここをまとめるのは俺には役不足だ。
「ちょっとジンノ大佐の様子見てくる」
「あれ、マリアちゃん行っちゃうの? これから俺のスッゲーの出す所なのに」
「それは………、また今度で」
「いいよなー、マリアはいつでも大佐の所に行けて」
それは確かに役得だと思ってる。
「タカヤが寂しがってるって伝えておくよ」
そしてプレイルームを後にした。
地上の砦に来ると、地下の騒がしさが嘘のように静かだ。
元々はこういう静かな所が好きだった。
今では騒がしいのも嫌いでは無くなってきたな。
執務室をノックする。
が、返事が無い。
今日はここにはいないのかな?
ゆっくりとドアを開けて確認してみると、ソファに寝転がるジンノ大佐がいた。
近づいてみると、熟睡しているようだ。
今日はオフだしな。
たまにはゆっくりと昼寝もしたいだろう。
いつも冷静だけど、その分気も張っているだろうから、気苦労も多いんじゃ無かろうか。
安らかに深い呼吸を見る限り、体調は安定していそうだ。
足の具合を見てみたかったが、余りに気持ちよさそうに寝ているので起こすのは気が引ける。
向かいのソファに座り、その様子を眺めてみる。
考えてみれば、ジンノ大佐の日常生活ってどうなっているんだろう。
診察と、夕食と食後の少しの時間を一緒に過ごし、その後ジンノ大佐は仕事を始め、俺はいつも地下の自室に戻っていた。
松葉杖を使っていた時は多少の補助はしていたけど、できるだけ何でも自分でやりたがってたからプライベートまではあまり入り込んでいない。
ある意味、こんなにぐっすり寝入っているの所を見るのはレアなのかもしれないな。
時には何も考えずに深い眠りにつくのも大事な事だろう。
足の包帯とギプスを外してからも毎日症状の具合を見に来ていた。
今の所は順調だ。
今日は、どうしようか。
起こすのも申し訳ないし、診察もしたい。
……起きるのを待つか。
コーヒーメーカーに豆をセットして、電源を入れた。
いつジンノ大佐が目を覚ますのか分からないが、それまで静かに過ごしておこうと思った。
無駄に執務室を荒らすつもりは無い。
ゴポゴポとコーヒーメーカーが音を出すと共に、豊かなコーヒーの香りが充満する。
この香りは不思議と気持ちを落ち着かせる効果がある。
したたり落ちるコーヒーを見ていると、背後から声がかかった。
「マリアか」
「あ、はい、勝手に入ってきてすみません」
「いや、構わない。今入れてるコーヒーをくれ」
「はい」
マグカップにコーヒーを注ぎ、ジンノ大佐と自分の前に置く。
「随分ぐっすり眠っていましたね」
「ああ、お前のおかげだな」
「俺の?」
「お前の手術でだいぶ日常生活が楽になった。痛みを気にすること無く眠れる」
「それは良かったです。少し診せてもらえますか?」
手術の傷跡は、以前の縫合の修正も兼ねてあり、かなり綺麗になっていた。
皮膚が無理に引きつる事も無い。
腫れも無い。
「動かせますか?」
足首を上に下に、自然に動くようになっている。
この調子ならすぐに問題無く動けるようになるだろう。
とは言っても、もうジンノ大佐は普通に歩いてるんだよな。
回復力が尋常じゃない。
「さっき、お前が研究室にいた頃書いた論文を読んだ」
「論文……」
今、ジンノ大佐は《お前が書いた論文》と言った。
思い出したくない悪夢だが、研究室にいた時、俺の書いた論文は教授の名前で発表され、そしてその次に書いたものは徹底的に無いものにされた。
俺の名前で出した論文は出ていないはずだ。
「俺が書いたって、ジンノ大佐は知っているんですか……?」
「大きく取り上げられた論文なのにそれ以上の進展が無い。申し訳程度にお前の名前が追加されていたぞ。結局、今のまま研究が進まないんだろう」
「……」
あの時、まだ研究は途中だった。
未完成の状態のまま教授の名で発表され、俺の研究はまるごと教授に渡すしか無かった。
「テロメアの遺伝的要素とその抑制だか複製だか、そんな名前だったな」
「はい、どうでしたでしょうか」
少しドキドキする。
これでも真剣に取り組んできた研究だった。
「正直に言う」
「はい」
「全く分からなかった」
「え」
「俺には最初の三行でギブアップだ。まずテロメアがなんなのか分からん。軽く説明は入っているようだが、俺には理解不能だった」
「テロメアはある時期から細胞分裂の度に少しずつ短くなっていく寿命に関わるDNAの構造です。テロメアを維持するテロメラーゼを作る遺伝子情報を応用、複製できれば、人の寿命や老化は今後変わってくるかも知れないんです」
「それは凄そうだ。教授が手柄にしたいくらいだから、画期的な内容だったんだろうな」
「もし、研究が続けられたらあるいは……。まだ検証の段階で教授に見せた時、これは一度預かると言われて、そのまま教授の名前で発表されていました……」
「それだけ夢の研究だったんだな」
「そう、なる予定でした。資料は全て没収されましたが……」
「良い具合に利用されてしまったな」
「そうですね。そんな手口があるなんて、研究ばっかりしていた俺には理解できませんでした」
「名声が欲しい人間は、それが誰の功績であれ自分の名前で公表すればそれが真実になると思っているんだろう。全く愚かだな」
「……」
分かってくれる人がいた。
それだけで、気持ちが軽くなる気がした。
「その後にも論文を書いていたな」
「……はい」
これは、研究途中で研究室ごと消されてしまった。
俺が研究室から追い出された原因だった。
なぜジンノ大佐は知っているんだろう。
「がん細胞のアポトーシスのソマチット群からのアプローチ、だったか」
「そうです。よく見つけましたね」
「現在公開不可能な機密情報の一つに入っていた」
「公開不可能、……ですか。なるほど、そういう事ですか……」
「これは、何とかタイトルだけ覚えたが、中身を一行読んで理解するのは無理だと思った」
おおう、一行だけかよ……。
「おかげで熟睡できた」
ああなるほど。
お役に立てて何より……。
「がん細胞のアポトーシス、抗がん剤を使わずに自ら消滅させる可能性の為に、ソマチットと、まだ見つかっていないフゲーエキンの研究ができたら、と思ったのですが」
「未知の単語が多すぎる」
「ですよね……」
この辺りにくると専門用語が多くて、その分野の人間でないと理解するのは難しいか。
「それでも一つだけわかる事は、その研究が成功すると都合の悪い人間がいたという事だろうな」
「……そうですね。がんが抗がん剤無しで治療できるとすれば、医療も製薬会社も大打撃を受けるでしょうから」
「医療に関係している人間は本当に病気を治したいのか、利益追求したいのか分からんな」
「搾取される側には何も伝えず、ただ金を巻き上げている、そういう事ですね」
「そういう事だ」
人間は醜いな。
そう思ってしまうのは、自分がそれを目の当たりにしたからだろうか。
一部の上の人間の利益の為に、その他の人間には何も知らせずただ金を巻き上げる。
それが当然のようにまかり通っている。
「嫌になります」
「こういう話は歴史を見ればいくらでも出てくる」
「……確かに」
「あること無いことでっち上げて、社会的に消されるか存在が消されるか。証拠になるものは全部破棄してな」
もし、そんな人達がいなければ、もっと人類は進化していたのかもしれない。
もしかしたら、戦争さえ無い世界になっていたのかもしれない。
肩を落とす俺にジンノ大佐が言う。
「お前はそうならないだろうな」
「どうでしょうね。もし権力を握ったら、それに固執してしがみついたり、誰かを抹消したりするかもしれませんよ」
そう言うと、ジンノ大佐は俺を見てクスクスと笑った。
「無いな。お前はそんな臆病なマネはしないだろう」
「逆ではなくて?」
「逆じゃない。臆病な人間ほど権力と金が大好物だからな」
「じゃあ、この世界の権力者は臆病者ばかりですね」
「間違いではないだろうな」
「今のままで、変わる事は無いのでしょうか」
「どうだろう。世界をひっくり返すくらいの革命家でも出てくれば良いがな」
「それはまたスケールが大きいですね」
「自分だけを救ってくれる救世主が来ると信じている人もいる。それもいいんじゃないか」
「話半分で聞いておきます。」
「はは、いい心がけだな。何かに妄信的になってしまうと人は脆くなる」
「怖いですね」
「人間てのはそういう生き物なんだろう」
そう言って伸びをして、コーヒーを一口飲んだ。
「そうだ、タカヤがなかなかジンノ大佐と会えないと寂しがってましたよ」
「あいつはいつまで経ってもガキだな」
そう言いながら嬉しそうに笑っていた。
その後、真顔になって言った。
「間もなく戦争が終わる。アユタワがタールの降伏を受け入れる準備をしている」
「戦争が……」
本当なら諸手を上げて喜ぶ所だろうが、そんな気分になれなかった。
ならば、ここの砦は?
ここにはあとどれくらい居られるんだ?
最初に思った事は、そんな疑問だった。
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