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06 フルートの音
「俺って……はしたない奴なのかな、やっぱ」
「急に何言い出すんだ」
サヤカがある夜、珍しく自信喪失気味にそんなことを口にしたので片桐は驚いてしまった。サヤカは片桐の傍に寝転びながら、そっとこちらを振り返る。カノジョはそれまで見たこともないほど悲しげな目つきをしていた。
「何かあったの?」
「だってさ……これだけ無防備にしてやってるのにお前、さっきから全然俺に触ってくれないじゃんか。もしかしてこの前言ったこと……気にされてるのかなって」
片桐の戸惑いを余所に、サヤカはやや不貞腐れるように顔を背けながら言った。
「誰にでも抱かれてきた俺なんか……汚くてもう嫌になったのかなって」
「馬鹿なこと言わないでよ」
サヤカに寄り添う様に、片桐は触れ合うぐらいまで顔を近づけ必死で説得した。
「こんな僕の傍に居続けてくれるの……世界の何処見たって、君だけなんだ。感謝こそしても汚いだなんて思う訳がない」
「……だったら、なんで」
「……やっぱり、自分から何かをするのって恥ずかしいんだ。それに、いくら夢の中でも君が嫌がる様なことしたらどうしようって怖くて」
「俺に触ってくれよ」
あまりに直截的な物言いに片桐はドキリとする。カノジョに視線を向けると、瞳がほのかに湿って見えた。この上目遣いは反則だろう……片桐は思わずそう言いたくなった。
「……嫌なのか?」
片桐は咄嗟に首を横に振った。それから意を決し、深呼吸すると、そろりそろりと目の前に横たわるカノジョに手を伸ばしていく。
手始めに頰に触れた。すべすべとしていて、指先から伝わってくる感覚の心地よさに片桐の心臓付近がザワつく。サヤカ自身も目を細め、静かな陶酔に身を任せるように片桐の手に頰を擦り寄せてきた。頭頂から突き出た猫耳がぴくぴく震えているのが分かった。それから、少しずつ少しずつ首筋に指先を這わせていく。
「んうっ……!」
サヤカが甘い声を漏らした。想定しなかった反応に、片桐はびくりと動きを止めてしまう。だが今更中断することはサヤカ本人が許さなかった。一旦離れようとした片桐の手は、肉球のついた小さな両手で強引に元の場所へ引き戻される。
「もっと……もっと……お願いだから」
「でも」
「……」
若干非難がましいカノジョの眼差しに、片桐は逆らうことが出来なかった。ねだられるまま片桐は、サヤカの首筋から喉元にかけてを指先で丹念にくすぐり続ける。
「ふうっ……うーっ……!」
蕩けた様な表情で身をよじり、尾をパタつかせるサヤカを見下ろしている罪悪感に、片桐は押し潰されそうだった。やがてカノジョは片桐の膝の上に上体を投げ出し、そのまま埋もれる様にくったりとしてしまう。
片桐が半ば途方に暮れていると、その時何処からともなく美しいフルートの調べが聴こえてきた。何者による演奏か定かではないが、その音はどうやらドリームランド全体に響き渡っているらしかった。
「……♪ ……♪」
余りに見事で綺麗な演奏だったので、片桐は無意識のうちにそのリズムを口ずさんでいた。考えてみれば館内放送みたいなものなのかもしれない。どの道これは片桐自身の夢だ。多少の不条理が起きたからといって何の不思議がある? 片桐はそう結論づけて納得した。
どうやら、サヤカにとってもこの演奏は快適なものらしかった。フルートの音色に合わせて尾が可愛らしく一定間隔で揺れていて、その動きはさながらファンシーなメトロノームの様であり、見ているだけで片桐自身もちょっと楽しい気分にさせられた。
「…………あれっ?」
片桐はその時、奇妙な既視感を覚えた。
前も何処かで同じ光景を見たことがなかっただろうか? 思わず膝の上で寝転がったままのサヤカに目を向ける。
「何だよ……間の抜けたような顔しやがって……お前も……幸せだろ……?」
サヤカが目を細めて薄く微笑んでくる。心の底からこの時間を堪能しているような微睡みの表情。間違いない。見覚えがある。しかし一体何処で。
片桐に刹那、鋭い頭痛が駆け抜けた。
記憶の門を開け放たれたかのような思い出の洪水。
フルート。尻尾のメトロノーム。微睡み。そして……猫の耳。
片桐は驚き、それから間髪入れずに自らを責めた。
何故今まで気が付かなかったのか。
少し考えれば、分かるハズのことだった。否、だからこそ時間がかかったのかもしれない。この泡沫の幻が余りにも心地好かった所為で、無意識のうちに片桐は考えること自体を拒んでしまっていたのだ。考えないでも済むように、片桐は眠りを求め続けたのだ。
「サヤカ……君は……」
「……思い出してくれたんだな」
そう言って八重歯を剥き出しにしたカノジョの瞳は、またも生暖かい宝石を溢れさせようとしていた。悲しみ混じりの笑みを、自分に向けてきてくれるカノジョの正体。
それはひと月ほど前、大学近くの公園で死骸となって見つかった一匹の野良猫。
『サヤ』と名付けられた、片桐とは極めて親しい関係にあった猫の化身ともいえる存在。
そのことに気付いてからは、あっという間だった。
片桐は夢の世界に行くことが出来なくなった。
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