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とんだ一日の始まり
「だ、だけどキスなんて。ははっ冗談だよな?」
僕が自信満々で差し出した九十二点と書いてある数学の答案用紙は高梨の差し出した九十六点の答案用紙を前にむなしく映る。こんなバカな事がと、背中に汗が流れた。
内心焦りまくりながら何でこんな展開になったのかを僕は必死で思いだそうとしていた。
そう。事の始まりは、クラス委員の僕に音楽祭実行委員の早川さんが鼻から荒い息を噴出しながら僕の机にやってきたことだった。
「松本からも言ってよね。もうクラス対抗の音楽祭まで一ヶ月切ってるのに、放課後に全然集まらない人がいるでしょ」
シャギーを入れた髪を振り乱しながら、早川さんがいきまく。
「ああ、森井とか、佐々木とか?」
「そうよ、森井の糸を引いているのが、転校生の高梨 啓」
何で、高梨だけフルネームなのかが気にはなるが、そういやあいつもいつも練習サボってたよなと相槌をうつ。
「いい? クラス委員として彼ら三人雁首揃えて練習にこさせてねっ」
それって、君の仕事じゃん……という僕の抗議は即座に切って捨てられた。
森井や佐々木って不良じゃないか。嫌だなあ。早川さんも放っておけばいいのに。離れがたい椅子から嫌々立ち上がる。
自分で認めるのも癪だが、僕は運動オンチで背も百六十五センチほどしかない。体も貧弱で平和主義者だ。もし、あいつらが殴りかかってきたらと思うと気が重い。
軽音楽同好会とかいう可愛い名前とは不釣合いのドクロがドアに貼り付けてある部屋の前でため息をついてノックした。だがしかし、立てノリの激しい音楽が中から聞こえてくるという事はまったく聞こえてないということだろう。このまま帰っちゃおうかという誘惑に従いそうになるのを必死で抑え込んで僕はドアを開いた。
「お、おじゃましま〜す」
なるだけ、狂犬どもを刺激しないように爽やかな笑顔を取り繕って中に入っていった。
「誰だよ、おめえはよ」と、三年生らしい目つきの悪いお兄様が僕をねめつける。
「こいつ、俺んとこのクラス委員の真面目本君だぜ」
ぎゃははははと何が面白いのか、そいつらが笑うので、はははと合わせた。
「ええとさ、森井君と、佐々木君これから音楽祭の練習あるし、クラスに戻ってもらえないかな?」
押し付けじゃないし、頼んでるし。これで来なかったんなら僕のせいじゃないと、黒ぶちのメガネの鼻のブリッジを右手で上げる。これは極度に緊張したときに出る癖だ。つまり、今極限に緊張している。
「はああああ? なんだってぇ?」
前髪を長く伸ばし、唇にピアス穴がある男、佐々木が顎を上げてこちらを見た。
「あんなカッタルイもん、行くわけがないじゃん」
これは、鼻ピアスの穴がある男、森井だ。私立は規則にうるさいことが多いが僕の学校はその辺緩い。偏差値がある程度高いので大多数は真面目だが、一定数頭は良くても不良を気取る輩はいるものだ。
「い、いや。じゃあいいよ。僕も頼まれただけだしさ」
端から一応言ったという事実が欲しいだけだったので早々に退出しようとしたが入り口から入って来た、長身の男ともろにぶつかった。
ちょうど、僕の頭が喉元にあたる位置だったせいで、入ってきた奴がうっと言いながら喉に手をやった。
「ご、ごめん。痛かったよね。悪い、すみません。えっと……あ」
しかし伏せていた顔を上げると、一番会いたくなかった奴だった。高梨 啓だ。僕と同じ二年生でこの学校の不良どもから一目置かれていると言われる最悪なやつ。
「あ、あのさ、早川さんが音楽祭の練習に来てってさ。じゃあ僕はこれで」
言うべきことを大急ぎで言って今度こそ部屋を出て行こうとドアに手をかけた背中に思いもかけない言葉が追いかけてきた。
「おい、待てよ。行ってやってもいいぜ」
「いや、いいよ。やっぱダルイもんね……て、えっ? 練習来てくれるの?」
あっさりと承諾するなんて思いもしなかった僕は、しばらく反応できずに振り返ったまま高梨の顔を見詰めた。
栗色というより、蜂蜜色の柔らかい髪は、ワックスでツンツン立っている。笑っているんだけど笑い顔に凄みがある。髪より暗めの琥珀色の瞳が光り、大きめの口が今はニヤリと嫌なカーブを描いていた。
誰が言ってたんだっけ? 高梨ってイギリス人のクォーターらしいと言ってたよな。怖いくせについ見入ってしまった。
「おい、何ボケっとしてんの、松本君」
高梨の右手が僕の左の頬をぐいっと引っ張った。
「いででででで……」
「でもさ、言われて簡単にはい、っていうのもなあ」
「いや、それでいいんじゃあ……」
そうだ、と高梨は何か良からぬことを思いついたのかニヤリ笑いを深くする。
「明日の実力テストの数学で俺が負けたら練習一回も休まずに行ってやるよ」
「え? 本当?」
その申し出に大きく安堵した。体力勝負とか、金を出せとか言われるのかとヒヤヒヤしたが、勉強のことなら大丈夫だ。
だって僕は自他ともに認めるガリ勉君だからだ。何を思って高梨がこんなことを言い出したのかわからないが不良ごときに負けることなんかない。これって、すごいラッキーかも。その時はそう思ったのだ。
その時は。
「それで僕は全然いいよ」
なぜか、僕の笑い顔より、さらに楽しそうな顔になった高梨がちと気にはなったが、その時深く考えてなかった。
「じゃあ、もし俺のほうが良かったら、さっきのプラス俺の言う事なんでも聞くってのは?」
「いいよ、それで」
僕の返事に高梨は満面の笑みで頷く。
「おい、森井、佐々木行くぞ」
高梨の言葉に不平を漏らしながらも森井も佐々木も従った。ああ、良かった。僕は三人を引き連れて意気揚々とクラスに帰って行ったのだ。
そして今。
「こういうことだから松本君、俺にキスして」
テスト用紙をひらひらと振って高梨はあははと笑ったが、当然僕は笑えなかった。
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