天使と悪魔

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天使と悪魔

「き、キスってま、まさか」  高梨の言葉に僕も周りも驚いてあれだけ騒がしかった教室の中は水を打ったように静かになった。 「魚の、とかボケないでね、松本君。キスはキスだよ、知らないわけないよね」  ひらひらと九十六点の答案用紙を振りながら高梨は僕を見る。いや、見ていたのは高梨だけじゃない。皆、好奇の期待に目が輝いている。どうなるのか興味津々なのだ。  キスぐらい僕だって知っているし、その後の色々だって分かっている。ただしそれは頭ではということだ。コミュニケーション能力の足りなさや見た目の地味さ。それらが今までキスという経験を阻んでいたのだ。でも理由が分かったところでそれらを覆す策も性格の反転もあり得ない。つまり僕にはキスなんてできるスキルは全くない。  クラス委員だって先生に指名されたからでクラスのみんなに選任されたわけじゃないのだ。人前に出るのが得意じゃない僕は毎日必死で押し付けられた役目をこなしている。  それなのにこんなに皆の視線を浴びるなんてもう耐えられない。後先考えず逃げることを選択した。 約束なんて糞くらえだ。これ以上笑いものになってたまるか。  ところが逃げを打った僕の行動を読んでいたみたいに高梨の腕が背後から周り、女子の「きゃあ」という悲鳴が上がった。 「逃げられるわけないでしょ、松本君」 「だ、だって僕男だし……」  後ろから抱きしめられるように拘束された僕の首筋に高梨の口元が近づいた。何をされるのかとびくつく僕に爆弾が落とされる。 「だったらあんたが塾の帰りに道草して何をしているのか皆に言っていい?」 目を見開いて固まった僕に高梨はなおも畳みかけた。 「俺、カフェでバイトしているんだけど夜遅く、ガラス越しにこっちを棒立ちで見ている奴がいてさ。入るのかと思うけど絶対入らないの。気になっていたんだ」  ふふふと不気味な笑いを零す高梨とは反対に僕は喉が干からびたみたいに声を失った。 「あれ、俺目当てだよね。シフトの無い日は明らかにがっかりした顔になるって店で有名なんだけど。ここに転校してきたら同じクラスに見知った顔がいて驚いたよ、ねえ松本君」  いっそ優しいと言える声音で語られた内容に耳を塞ぎたくなった。  もうこの世から消えたい。ばれていたなんて。  そっと見ているつもりだった。一日の疲れも働いている彼を見るとなんだか癒される。ささやかな僕の楽しみだった――のに。 「あ、新しいカフェできたのか」  塾の帰り、帰宅とは逆の道沿いにしゃれたカフェが開店しているのに気づいたのは少し前だ。ガラス張りの店内で白いシャツと黒い腰履きのエプロン姿の長身の青年が忙しそうに働いているのに目を奪われた。  恰好良い人だなあ。  百八十センチは軽く超えていそうだ。頭が小さくて手足が長いのでより高身長に見える。髪は染めているのか蜂蜜色だった。  もっと近くで見てみたい。そっと物陰に隠れるようにして近づく。  あ、外国人なのかも。顔の造作を見てさっきの思いを訂正する。染めているわけじゃなさそう。琥珀色の瞳がライトに反射するとキラキラしてとても綺麗だった。  もう遅い時間なのに結構席は埋まっている。忙しいはずなのに彼の動きは滑らかで優雅だ。すらっとした長い指の大きな手は器用にケーキをサーブし、紅茶をカップに注ぐ。そのどれも無駄がない動きに見える。いつも天使みたいに微笑んで客の大部分は彼が目当てなのではと思う。  ――彼は僕の天使だ。  天啓みたいにその言葉が頭に浮かぶ。なんだか嬉しくてその思いを胸に大事にしまった。それからというもの、塾から家に帰るひと時、カフェの外でこっそり彼を鑑賞していた。 それがまさか自分と同じ高校生だったなんて。時期外れの転校生を見て本当に驚いた。しかも働いているときの優しそうな爽やか青年がこんな不良だったことにも衝撃を覚えた。  とはいえ、勝手に自分が見ていただけ。そう思っていたのに。天使どころか今は悪魔に見える。 「知ってたなんて、そんな……」  恥ずかしくてこのまま消えたい。目を閉じてそう願う僕は知らないうちに高梨にくるりと体を回されて抱きこまれ、眼鏡を奪われていた。 「め、眼鏡返せっ」 「これは邪魔だから取っておくね。さて、キスして松本君」 「そ、そんな……」  そうだった。  うろたえる僕に面白くなってきたと他の男子は「キス!キス!キス!」とはやし立ててくるし、女子は制止しようとするものとなぜだか応援するものとで言い争っている。  進退窮まって動かない僕に「仕方ないな、今回は俺が助けてやるよ」高梨はそう言ってなぜか僕の頬を包むみたいに持った。 え? 止めてくれるの。良かったと思う間もなく顔が迫ってくる。  いや、近い、近い、近いって。 「ええええっ」  ふにゅっなのか、むにゅっなのか味わう余裕なんてあるわけが無かった。思いもよらぬ柔らかな唇の感触に一瞬ここがどこかを忘れてしまう。  急に力みが消えたのに気づいて高梨の唇が一旦離れ、僕の上下の唇を代わる代わる食んでその後もう一度内側同士をくっつけるように合わせてきた。粘膜が合わさると二人の唇がねっとり混ざり合ったような気がして怖くなる。慄きが痺れとなって喉から胸を通り、果ては全身が得体のしれない熱に侵されたみたいに暑くなる。高梨は「ふっ」と笑みを浮かべ僕の唇をべろりと一舐めして胸ポケットに掛けていた眼鏡を僕に戻した。
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