新たなるピンチ

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新たなるピンチ

 グランドに飛び出して端までたどり着くとフェンスに背を預けながら空を見上げる。息が苦しくて吐きそうでなんだか笑えるくらい悲しかった。 「司」と遠くから高梨の声が聞こえた。 「待てって言っただろう」  豆粒みたいだったのに、あっという間に目の前に高梨がいる。 「ああ、…息が苦しくて…死にそうだ」  ぜえぜえと大きく息をしながら折っていた上半身を伸ばして高梨が僕を見た。 「なんだよ、何しに来たんだよ」  僕のつっけんどんな言葉に構わず、高梨がほれと僕の前に靴を差し出す。 「忘れ物」 「あ、ありがと」  受け取って履きながら、これって上靴だよなと冷静に思ったりする。そんな事に目を向けていないと不覚にも涙が出そうになるから。 「俺の話、聞きたくない?」 「聞きたくない」 「聞けよ」  高梨が僕の両手を掴む。  その問答無用なやり方にむかっ腹が立つ。 「何だよ、いつもそれだ。僕の気持ちなんて関係ないのかよ、君はっ」  その僕の言葉にわずかにたじろぐ素振りを見せたが、依然僕の手首を離さない高梨に焦れて僕はその腕に噛み付いた。 「いてぇっ」  顔を歪める高梨は、それでも手を離さない。 「いい加減にしろよっ。手離せっ」  使えない手の変わりに高梨を思いっきり蹴るが、それでも高梨は僕の手を離そうとしない。 「何なんだよ、僕は多田を振り向かすためとかの当て馬だったんだろ? 嫉妬でもさせようとしてたのかよ。おまえら倦怠期とか、そういうの? だったら僕の事は放っておいてよ」  喚く僕は、腕を引かれて高梨の腕の中に閉じ込められる。 「嫌だっ、止めろっ。離せっ」  高梨が僕の口を口で塞ぐ。とうとう涙が出てきてしまった。何でこんな事になるのか。  ただ、見てただけだったのに。  塾の帰り、疲れた僕はそれだけで癒されていたんだ。客と笑顔で話す高梨を見ていると僕に微笑んでくれてるみたいに感じた。  気づいてなかっただけで、それはもう恋だったのかもしれない。でも分かっていたって口にする気なんてなかった。ひっそりと自分の心の中で完結させていた。なのに、なんでこんな目に合わなきゃならないんだ。  抵抗する気も失せてしまった僕の目元を優しく高梨が指で拭った。 「泣かせてごめん。俺にちゃんと話させて。多田とはあんたが思っているような関係じゃないから。だから、離さなくてもいいだろう? あんたを今離したくない」  泣いているのは、僕なのに。つらい目にあったのは、僕のはずだ。それなのになんで高梨の声がこんなに震えているんだと思う。なんで、胸がこんなに痛いんだ。  許してるわけじゃない。言い訳を聞いてやろうと思うだけだ。泣きそうな背中に手を回すとその感触に気づいた高梨がぎゅっと僕を抱きしめる。  そのまま、僕らは何も言わずに抱き合っていた。 「嬉しいけど、そろそろ場所変えないか」 「え?」  高梨の声に顔を上げると、そういやここはグランドだったと気づく。校舎からは見えにくい場所とは言え、男同士で抱き合ってるなんて見られるとやばいことこの上ない。急速に現実に引き戻されていく。次の授業は数2だったはず。 「次の授業始まる。行かなきゃ」 「ここで、授業とかって普通ありえないだろ、司」  不服そうに抱きしめる腕から僕は脱兎のごとく抜け出した。 「あり得るよ、僕ら高校生だ」  僕の応えに高梨が、がっくり肩を落とす。 「何、優等生発言してんの」 「知らなかった? 僕はその優等生なの」  そうだった、無類の真面目君だったよ、あんた、と高梨はため息をつく。その後、額に手をやってから、「そうだ」と僕を見る。 「じゃあ、今日俺ん家に来いよ。司」 「何がそうだ、だよ。行かないよ。なんで行かなきゃなんないんだ。忘れてるみたいだけど、僕は怒ってるんだからな」  ふーんとこれ見よがしに高梨は腕についた僕の噛み跡を触って「痛ぇ」と言った。さっきは興奮していてかなり強く噛んだ自覚はある。他人に怪我を負わすなんて幼少期に遡ってもしたことが無い。自責の念がじわりと染み出すがここは謝りたくなかった。 「謝らないからな、君が悪いんだ」  慌てて顔を逸らす僕に高梨は「分かった」と言った。 「いいけど、来ないんならこれ返さないよ」  そう言いながら、高梨が見せびらかすようにポケットから出した物に僕は唖然と視線を合わせる。なんで今まで気づかなかったんだろう。それぐらいお馴染みのものだった。 「返せよ、卑怯者」 「弁明を聞いてもらうためなら、卑怯者でも何でもなるさ。どうなんだよ、来るの来ないの?」  ヒラヒラ振る手に持っているのは、あのエロの時、隣のベッドに投げられた僕の眼鏡だった。一挙に形勢が逆転した。殊勝に謝っていた高梨はどこへ行った? なんで、余裕たっぷりなの? さっきのはなんだったんだ?   僕の純情を弄びやがって。  さっきまで、悲劇の主人公みたいだった儚げな高梨は一瞬にして消えて悪魔のように笑っている。黒い翼まで見えそうな勢いだ。  僕はまたもや笑えなかった。
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