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第7章 ―26―
ジュヌヴィエは五千余りの歩兵に騎兵、魔法兵で守りを固めつつ、幕僚達と共に左翼の端に位置する別働隊で指揮を執っていた。
望遠鏡でずっと戦場の様子を窺っていたが、しばらくして国民軍が後退し始めたのを見て取ると、望遠鏡を下ろして満足気に唇の端を持ち上げる。
「流れは完全にこちらにあります。全滅も時間の問題ですね」
「お言葉を返すようですが、あまりにも後退が早過ぎます。罠かも知れません」
年配の幕僚の一人がそう意見したが、ジュヌヴィエは聞く耳を持たずに言った。
「罠ならば出し抜いてやればいいことです。所詮は平民共の浅知恵なのだから」
戦局は明らかにこちらが有利なのだ。ここまで来て二の足を踏む必要などないだろう。
しかし、そんなジュヌヴィエの思いとは裏腹に、別の幕僚も苦言を呈した。
「陛下、兵は無限にはおりませんし、数の上ではこちらが不利なのです。どうぞ慎重にご判断下さい。何度も申し上げましたが、私にはこのような戦いが必要だとは思えません。わざわざ正面突破などせずとも、ヴェリリエールを包囲して兵糧攻めにするという手もあるではありませんか」
「この戦いにおいて重要なのは効率ではなく、名誉です。平民の集団ごとき正面から蹴散らせなくては、王の沽券に関わるというもの。女王としての力量を示すのは、このルーヴェリアを守るためにも必要なことでしょう?」
他国から力なき王と侮られれば、どの道ルーヴェリアは危険に晒されることになる。
確かに兵糧攻めにすれば手堅く勝てるかも知れないが、時間のかかる戦法である以上、ヴェリリエールの占領が長引くのは避けられない。
政情が不安定な今、多少の犠牲を払ってでも短期決戦に持ち込むべきだった。
どうせ勝って当然の戦だ。
手早く終わらせなければ評価されない。
何かとうるさいこの連中も、全てが上手く行っうた暁にはやっと自分を認めることだろう。
一刻も早く全てを終わらせるのだ。
「このまま追撃をかけなさい」
「しかし……」
「黙りなさい!」
ジュヌヴィエは幕僚達を一喝して黙らせると、側に控えていた伝令に命じた。
「各部隊に伝令を! 歩兵・砲兵及び魔法兵は陣形を縦隊に変更し、正面から突撃です!」
ジェスは仲間と共に地下道を駆けていた。
地上より冷たい空気。
頭がぶつかりそうに低い天井の下、平坦ではない地面にいくつもの影が重なり合う。
その影に混じって幽霊もいた。
道が悪いせいで時々躓きそうになりながら、ジェスは前を走る男に続いて黙々と足を動かす。
担いだ銃が少し重い。
無限に続くとも思えるような不規則な足音が、先程から頭の中でぐるぐると回っていた。
地下にいるのはジェスの部隊だけではない。
前にも後ろにも別の部隊がいて、皆一様に出口を目指していた。
地上部隊が敵の主力を引き付けている間に、ジュヌヴィエに奇襲をかけるのだ。
セルジュは人海戦術でヴェリリエール中の地下道及び地下水道を徹底的に探索し、ヴェリリエール近郊の森の中へ出られる道を予め見付けていた。
それでも千を超える兵の移動には到底足りないため、わざわざ地下を掘って道を作りもしている。
持久戦に持ち込まれた際には、恐らく脱出路としても使うつもりだったのだろう。
相当に手間と時間がかかった作戦だが、ジュヌヴィエが更地の方に陣を張ってしまったため、完璧な奇襲にはなりそうにない。
それでもやる価値はあるだろう。
泡を食った国王軍の本隊が取って返すよりは、多分自分達がジュヌヴィエの元に辿り着く方が早い。
ジュヌヴィエや幕僚達がいなくなれば、軍はきっと総崩れになる筈だ。
たとえそうならなくても、ジュヌヴィエさえ殺せれば後のことはどうでもいい。
できればレリアに嫌われたくはないが。
そう言えば、レリアはどうしているのだろう。
ジェスはふとそう思った。
レリアは今日まだその姿を見せてはいない。
だがきっと現れるだろう。
自分が意志を曲げなかったように、恐らくレリアも自分の意志を貫こうとするに違いない。
それならお互い後悔しないようにするだけだ。
たとえどんな結果になったとしても。
ジェスは頭の中を空っぽにして緩やかな坂道をひた走り、遂に外に出た。
髪や肌を撫ぜる微かな風。
木の葉を縫って落ちる日差しが地下の暗さに慣れていたジェスの視界を奪ったが、それはほんの数瞬のことだ。
視界が元に戻ると、そこは草木の緑の濃淡が目に鮮やかな森だった。
背の高い木々が日の光を受けて光っている。
聞き慣れない声の鳥がどこか遠くから響いていた。
ここは先王が若かりし頃よく狩りに来ていたという、フォルテ・ヴロアの森だ。
ジェスは前の男に続いて歩を進め、静かに列に加わる。
同じように整列している部隊は十を越えていたが、今も出口からは続々と兵が現れ続けていた。
全員揃うまでには、まだもうしばらくかかるだろう。
全員揃っても、合図があるまではここで待機することになっている。
ジェスが近付いてくる幽霊を仕方なしに目を瞑ってやり過ごしていると、不意に辺りの空気の流れが変わった。
気のせいかとも思ったが、先程までとは明らかに音の聞こえ方が違う。
目を開けてみると、視界にも妙な違和感があった。
まさかと思いながら、ジェスが宙に向かって手を伸ばすと、指先が透明な何かにぶつかる。
恐らくは壁だ。
そのまま手を滑らせてみたが、切れ間はないようだった。
前方だけでなく、四方を透明な壁に囲まれている。
しかも上に手が届かない高さの壁だ。
誰の仕業かなど、いちいち考えるまでもない。
「あの馬鹿……!」
ジェスが毒づいて壁を殴ると、後ろに並んでいた男が不思議そうに訊いてくる。
「お前、さっきから一人で何してるんだ?」
「知り合いの魔法使いに嫌がらせされて、周りに壁創られたんだ!」
ジェスは素早く辺りに視線を走らせたが、レリアの姿は見当たらなかった。
だが、きっと近くにはいるのだろう。
ジェスはレリアを探すことをあきらめて、目の前の壁を見据えた。
レリアを見付けたからと言って、ここから出られる訳でもない。
居場所がわからなくても叫んでレリアの心を攻撃すれば、壁は簡単に壊れるのかも知れないが、この場でそれをやったら大変なことになるだろう。
毎日練習してはいても、魔法の制御には全く自信が持てなかった。
標的が明確だった時でさえ、無関係な人間を巻き添えにしてしまったのだ。
どこにいるかもわからないレリアを狙って魔法を使おうものなら、声が聞こえる範囲にいる人間が全員倒れるかも知れなかった。
開戦前に魔法兵が幻化の魔法をかけて回っていたものの、これだけの数の兵全てにかければ記憶を使い果たしてしまうため、かけたのは最前線に立つ兵士だけだ。
それでも全員には手が回っていない。
自分はどうやら人並み以上に魔法の力が強いようであるし、やはりここは魔法に頼らずに対処するべきだろう。
そもそもこういう展開は予想の内だ。
レリアは荒っぽいことができるような性格ではない。
多少痛め付けてでも大人しくさせるのではなく、ただ拘束しようとするのはいかにもレリアらしかった。
甘いとしか言いようがないが、だからこそ打開策もある。
ジェスは袖口からナイフを取り出した。
前後左右に人が立っているため、壁の中はやっと立っていられる程度の広さしかない。
ジェスは不自由な体勢ながら、できる限り体重を乗せてナイフを壁に突き立てた。
硬い音と共に弾かれたが、以前レリアが創った防壁に銃弾がめり込んでいたのを見ている。
刺さらないということはないだろう。
ジェスが壁を刺し続けていると、次第に周りの兵が異変に気付き始めた。
ざわめきが広がる中、小隊長がジェスの元へとやってくる。
「おい、さっきから何をしているんだ?」
「ちょっと訳ありで、魔法で壁に閉じ込められてる。あんた、もうちょい離れた方がいいと思うぞ。危ねえから!」
ジェスが一際力を込めて壁にナイフを突き立てると、やっと刺さった。
この要領でナイフを刺して行けば、ナイフを階段代わりにして壁の上に上がれるかも知れない。
だがジェスが次のナイフを突き刺す前に、壁のナイフが地面へと落ちた。
ジェスはナイフを拾うと、壁に開けた穴に再びナイフを刺そうとしたが、その穴が見付からない。
どうやらレリアは壁の一部を幻化状態にしてナイフを落とした上で、壁を修復したようだ。
やはりこちらを見張れる所にはいるのだろう。
ジェスがナイフを手で弄びながら次の手を考えていると、小隊長が近くの兵を踏み台にして、壁の上から手を差し延べてきた。
「何だかよくわからないが、さっさと上がれ」
これは有難い。
ジェスはすぐさま小隊長の手を掴もうとしたが、その前に壁が動いた。
小隊長の腕を弾き、真っ直ぐ空に向かって伸びていく。
もう空でも飛ばなければ出られないだろう。
ジェスは上げかけた腕を下ろして、透明な壁を見上げた。
この調子では、一撃で壁を破壊しなければ外には出られそうにない。
レリアは太い木の陰に身を隠し、遠くからジェスの様子を窺っていた。
目立ち過ぎる魔王は形を取らずに側にいる。
明確な形がないという点では幽霊に似ているが、幽霊と違って見ることはできなかった。
魔王がいる辺りを見ても木や草が生えているだけで、その魔力以外に存在を感じられるものは何一つない。
近くにいることに気付いているとしても、ジェスには自分達の居場所を特定することはできないだろう。
一度だけジェスの視線がこちらに向いた時にはひやりとしたが、視線はすぐに流れて行った。
どうやらジェスは実化の魔法を使えないようであるし、後はジェスが壁を壊す度に修復すればいいだけだ。
このままジェスとジュヌヴィエが出会わずに戦いが終わってくれれば、きっと全てが丸く収まるに違いない。
不測の事態が起こらないよう、レリアは必死で祈った。
シルヴィラの時間稼ぎが功を奏し、国民軍はヴェリリエールの町中まで後退することができていた。
ヴェリリエールは細く入り組んだ通りが多いため、町中では陣形を崩さざるを得ず、今では小隊ごとに分かれて戦っている。
それは国王軍も同じだった。
町の至る所で怒号や悲鳴、爆音に銃声が響き渡る。
石畳は誰が流したのかわからない血で汚れ、通りにはいくつもの死体が転がっていた。
銃撃戦をしながら間合いを詰め、最後には白兵戦で勝負を付けるのが一般的な戦いの手順だが、国民軍は白兵戦を嫌って砲撃や爆弾で間合いを保ちながら戦い続けている。
士気が低い国王軍には銃弾の中に飛び込んでいく程の気概がなかなかないようで、敢えて突撃をかけることはあまりなかった。
騎兵の機動力は相変わらず国民軍にとって脅威ではあったが、一旦散開してしまえば小隊を各個撃破されたとしても、大幅に戦力を失うことは避けられる。
戦いは地上ばかりでなく地下でも行われていて、シルヴィラも小隊と共に地下通路を移動している最中だった。
先頭を歩く兵の後ろに付いて、残りの兵に背後を守られながら、カンテラの明かりを頼りに闇の中を足早に進んで行く。
天井は頭をぶつけずに歩ける程度の高さだったが、とにかく窮屈で縦一列になって進むのがやっとだ。
出口までの道順は事前に何度も確認しているため、シルヴィラ達は迷わず歩を進めていく。
後ろから国王軍の小隊が追ってきていたが、爆弾を投げ付けて足止めをしながら進む内にこちらを見失ったようで、姿が見えなくなっていた。
どうやら上手く撒けたようだ。
他の部隊も上手くやってくれているだろうかとシルヴィラは思う。
他にも多くの部隊が地下からヴェリリエールを脱出し、ジュヌヴィエを攻撃する別働隊の援護をする手筈になっていたが、仕事はそれだけではない。
敵を地下へと引き込むのも作戦の内だった。
たとえ倒せなくとも、この迷路のような地下通路に敵を引き込んでしまえば脱出は難しく、事実上戦力を削ぐことができる。
シルヴィラは上着のポケットから懐中時計を取り出し、時間を確かめた。
八時過ぎ。
セルジュが別働隊に合図を送ると言っていたのは九時だ。
それまでに各部隊は何らかの方法でヴェリリエールの外に出なければならないが、この分なら遅れることはないだろう。
外に出るまで一時間もかからない。
やがて小隊は水路に行き当たり、シルヴィラは前を歩く兵に続いて腰まで水に浸かって水路を歩き始めた。
セルジュは馬を駆り、残っていた市壁の門から小隊と共にヴェリリエールの外へと脱出していた。
後衛の最後尾に付けていたため、怪我を負うこともなく無事だ。
セルジュはしばらく市壁の側で待機し、門から出てくる国民軍の兵と合流して隊列を組み直していく。
そうしてある程度まとまった数になると、市壁を大きく回り込んで移動を始めた。
今度はセルジュ自ら前線に立ち、軍を率いていく。
別働隊の援護に向かうのだ。
現在の戦況はわからないが、仮に今こちらが劣勢だとしてもきっと覆せるだろう。
セルジュはおもむろに上着のポケットに手を入れると、取り出した懐中時計に目を落とした。
そろそろだ。
セルジュは馬を止めると、後ろを振り返って叫んだ。
「皆さん! 念のためもっと壁から離れて下さい!」
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