第7章 ―27―

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第7章 ―27―

 いななきと共に馬が卒然と立ち上がり、ジュヌヴィエは馬から振り落とされそうになった。  ジュヌヴィエの馬の異変に驚いたのか、幕僚や騎兵達の馬も総立ちになって、皆振り落とされまいと必死に馬にしがみつく。  ジュヌヴィエが懸命に馬を宥めていると、遠くから地鳴りのような音が響いてきた。  しかも一つではなく、断続的に続いているようだ。  爆音や銃声にすら驚かない馬がここまで動揺するとは、一体何が起こっているのだろう。    訳がわからないながらも、ジュヌヴィエが何とか馬を落ち着かせると、馬が震えていることに気が付いた。    否、地震だ。    珍しいとジュヌヴィエが思った時、ヴェリリエールの町の一部が動いた。    沈み始めたのだ。 「な、何!?」  狼狽するジュヌヴィエの前で、ヴェリリエール城が炎と爆音を上げて崩れた。  巨大な瓦礫を支え切れず、ヴェリリエールの町並みは更に速度を上げて崩落していく。  まるで大地に飲み込まれていくようだ。  更地にも亀裂が入り、国王軍の別部隊は慌てて後退を始めたが、逃げ切れなかった兵の一部が落ちて行く。  その悲鳴は轟音に呑み込まれてすぐに聞こえなくなった。 「何ということを……!」  ジュヌヴィエは馬を操って広がりゆく穴から逃れつつ、忌々しげにそう吐き捨てた。  ヴェリリエールごと敵軍を消してのけるなど、どうかしているとしか言いようがない。  ヴェリリエールにはヴェリリエール城を始めとして、貴重な建築物や宝物があったというのに。    今やそのヴェリリエールは郊外のごく一部を残して、大きな穴の中へと消えてしまった。  崩落は止まったが、川の水だけは今も穴の中へと流れ込み続けている。  その上に浮かぶのは国民軍の物と思しき無数の気球。  こちらに接近しつつある国民軍の姿も見えた。    軍はほぼ壊滅だが、まだ敗北が決定した訳ではない。 「何をしているの! 気球を撃ち落としなさい! 接近中の部隊を迎え撃つのです!」  ジュヌヴィエは鋭い口調で命を下した。  セルジュは暴れる馬を辛うじて宥め、辺りを見渡した。  先程まで聳えていた市壁はもうない。  壁の一部は国民軍の方に向かって倒れたが、市壁から離れて移動していたため、巻き込まれた者はいないようだった。  気球で脱出する手筈になっていた者達も多くは無事に脱出できただろう。  脱出が間に合わずに巻き込まれた者もいるだろうが、今はとにかく進むしかなかった。  そうでなければ、何のためにこんな真似をしたのかわからない。    だが大多数の兵にはヴェリリエールを崩落させることを伏せていたため、皆驚き、興奮するばかりだ。  もう少し落ち着かないと、動けと言っても動かないだろう。    セルジュが懐中時計を上着のポケットにしまっていると、近くにいた兵が驚きを拭い切れない面持ちのまま尋ねてくる。 「あ、あの、これは一体どういうことなんですか?」 「ヴェリリエールの地下に爆弾を仕掛けて、一気に崩したのですよ。ここの地下は大半が空洞になっているというのは有名な話ですから」  地下は犯罪者の巣窟になっているという噂があったものの、体制側からはほとんど手付かずで放置されていたので、国王軍にとっては完全に盲点を突かれた形になっただろう。  敵に知られたらそれまでという作戦なので、このことを知っていたのは自分と、爆弾を設置したごく一部の者だけだ。  大半の者がヴェリリエールに敵の主力を引き付けてから脱出し、別働隊のジュヌヴィエを叩くだけの作戦だと思っていたに違いない。  国王軍の士気は決して高くはないし、ジュヌヴィエを拘束ないし殺害してしまえば、敢えて本隊を壊滅させる必要もなかったかも知れないが、念には念を入れるべきだった。    兵に死を強いたのだから、万が一にも敗れる訳には行かない。    セルジュは望遠鏡で国王軍の別働隊が動き始めたのを確認すると、兵がある程度静まるのを待って声を上げた。 「さあ、私達の勝利は目前です! 行きましょう! 革命を守るのです!」  兵が口々に「革命を守れ!」と叫びながら、拳や銃を高く突き上げた。  その声は次第に大きくなっていく。  まだ遠い理想を映す、様々な色の瞳が強く燃えていた。  そこには迷いも恐れも感じられない。  たとえ百万の軍勢が相手でも負ける気がしない。    気勢を上げる兵を背に、セルジュは再び馬を進め始めた。    突如響き渡った轟音。    その合図を受けて、国民軍の別働隊は森の中で静かに移動を始めていた。  しかしジェスは壁から出られないままだ。  遂には小隊長もあきらめて、仲間と共に行ってしまった。  戦闘終了後には何とかしてやると言っていたが、それでは遅過ぎる。  ジェスは周りから人が完全にいなくなるのを待って、懐からオルガにもらった火薬玉に火打ち金、火打ち石を取り出した。マッチで導火線に火を付ける。    そして叫んだ。 「おい、レリア! 聞こえてるんだろ! 今すぐこの壁消せ! でないと俺は多分死ぬ!」    火薬玉はほとんど威嚇や陽動に使っていた物なので、大した威力はない筈だが、これ程の至近距離で爆発したらどうなるかわからなかった。  死なずに済んだとしても、失明したり、指が吹き飛んだりしかねない。  下手に生き残るよりは、死んだ方がマシかも知れなかった。  かなり捨て身の作戦であるため、できればあまりやりたくなかったのだが、他にいい方法が思い付かなかったのだから仕方ない。    次第に高まっていく己の鼓動を聞きながら、ジェスはレリアの返答を待った。    ジェスの声はレリアの元まで届いており、レリアは必死でどうすべきか考えていた。    ジェスの言葉の真偽がわからない。  単に外に出るための嘘なのかも知れないし、本当なのかも知れなかった。  魔王に訊いてみるべきかとも思ったが、ジェスが言うには時間がない。  そんなことをしている内にジェスが死んでしまっては元も子もなかった。  もしジェスの言葉が嘘だったとしても、他に止める手立てがない訳でもない。    レリアが思い切って壁を消すと、ジェスは火薬玉をできるだけ遠くに投げて地面に伏せた。  小さな爆発が起こり、爆風と熱が辺りに広がる中、レリアはジェスの元へと急ぐ。  そして立ち上がったジェスが駆け出す前に、その手首をしっかりと掴んだ。  ジェスは小さく肩を震わせてから、ゆっくりと振り返る。    だが目が合うことはなかった。    レリアはジェスを掴む手に目を落として、ひたすら意識を集中させる。  またこうしてジェスに会えて、ジェスに触れることができて、とても嬉しかった。  だがこれでいよいよ嫌われてしまったであろうことを思うと、ひどく悲しくもある。  本当にジェスを止められるかどうかわからなくて不安で、緊張してもいた。  胸に広がる様々な感情を抑え込んで、レリアは集中を乱さず保ち続ける。  今ジェスの腕に触れることができているのは、親指と人差し指、中指と手の平の一部だけだ。  少しでも気を抜いたら、ジェスはきっとこの手をすり抜けて行ってしまう。  そうしたら、もう自分には止められないかも知れない。  まだ思うように物に触れることはできないし、壁を創って閉じ込めたところで、ジェスはきっとまた同じことをするだろう。    レリアは集中を途切れさせないように、ゆっくりと言葉を紡いだ。 「私はジェスが大好きだよ。たった一人の友達だよ。だから、行かないで」  レリアはジェスの腕を掴む手に力を込めた。  もうジェスには人を殺して欲しくない。  自分のせいで人を殺して欲しくない。  そんなことをするジェスを見たくなかった。  嫌われても、もう二度と会えなくてもいいから、行かないで欲しかった。  愛しさや切なさで心が苦しくて、もし涙が流せたら泣いてしまったかも知れない。    この思いをそのままジェスに届けられないことが、ひどくもどかしくて悔しかった。 「ジェス! 一緒に行こう! もう誰も殺さずに、ここじゃないどこか遠くに行こうよ!」  ジェスの腕に力が籠った。 「悪い!」  ジェスは言葉と共に、レリアに向けて幻化の魔法を放った。  ジェスは一人森の中をひた走っていた。  地面に起伏がある上に雑草に覆われていて走り難いが、先に行った部隊が付けた道を辿れば幾分走り易かった。  時折頭上で鳥が慌てて飛び立ち、兎や鹿が驚いた顔でこちらを見ては、すぐに走り去っていく。    行く手からはずっと地鳴りのような兵士達の足音や怒号が聞こえていた。  前進を続ける国民軍が木々の隙間から見えている。    もうすぐ戦場だ。    やっと望んでいた場所に辿り着けるというのに、しかし喜びだとか満足だとか、そういったものは少しも心の内から生まれて来ない。  むしろ鬱々とした気分だった。    レリアに魔法を使ってしまったのだから。    明確な攻撃の意志はなかったので、ただ少し衝撃を与えた程度だろうが、それでもレリアを傷付けてしまったことに変わりはない。  覚悟の上でしたこととはいえ、後悔に限りなく近い感情に苛まれずにはいられなかった。  だが、レリアを傷付けてまで進むことを選んだのだから、もう後戻りはできない。    ジェスは森を抜け、戦場へと飛び出した。    レリアは言葉もなく、ジェスが走り去った方をただ見つめていた。  事前に幻化の防御魔法をかけていたので、ジェスの魔法で傷を負うことはなかったが、咄嗟に防御へ意識を向けた拍子に手がジェスの腕をすり抜けて、ジェスはそのまま行ってしまった。  自分の必死の言葉はジェスには届かなかったのだ。  そればかりか、ジェスは自分に向けて魔法を使った。    どうしてジェスには伝わらなかったのだろう。  自分の気持ちが足りなかったのだろうか。  ジェスが自分を嫌いになってしまったからだろうか。  あるいはそのどちらでもなく、ジェスは自分が思っている程自分を好きでいてくれた訳ではなかったのかも知れなかった。 「追わなくていいのか?」  いつもの姿に戻ってそう問いかけてきた魔王に、レリアは逆に問い返す。 「追いかけた方がいいと思う?」 「我には何とも言えぬな。其方次第だ。ただ、肉体を持たない其方ならば、今からでも十分追い付くことができるとだけは言っておこう」 「そっか……まだ間に合うんだ」  行っても、多分ジェスは自分の言うことなど聞いてはくれないだろう。  きっと止めることはできない。  だが、ジェスを守ることはできるかも知れなかった。  それなら行くべきだろう。  ジェスにどう思われていたとしても関係ない。  自分がジェスを大切に思っていることに変わりはないのだから、それだけで十分な筈だ。    レリアはジェスを追って空へと上がった。
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