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第2章 ―4―
ルーヴェリアの王都・ヴェリリエール。
その中央には贅を尽くしたヴェリリエール城が聳えていた。
ともすれば見る者に乱雑な印象を与えてしまいそうな程多くの尖塔に飾られているが、しかし絶妙な配置のおかげで少しも美しさを損なってはいない。
よく手入れの行き届いた緑や噴水で踊る豊かな水が、城に更なる美しさを添えていた。
その城の一画に、ルーヴェリア国の第一王女であるジュヌヴィエ・リディアーヌ・ルーヴェリアの居室はある。
一人で使うには広過ぎる部屋で、ジュヌヴィエは革張りの椅子に腰掛けて銃の手入れをしていた。
日の光に当たらなくてもきららかな金色の巻き毛。
切れ長の青い瞳。
通った鼻梁。
薄い唇。
知的で気品ある面差しは文句なく美しかったが、それだけに冷たい印象が際立った。
レリアより二歳年上の、腹違いの姉に当たるが、レリアとは容貌も雰囲気もまるで似ていない。
暮らしぶりも随分異なり、金の刺繍が施された豪奢なドレスを当然のように着こなしていた。
貴人らしく、側には侍女が控えている。
やがて銃の手入れを終えると、ジュヌヴィエは銃口から火薬を込め、次いで弾を込め始めた。
もうこれ以上は待てない。
王の権威はとうに失墜していた。
経済の低迷と飢饉で、その日の食事にも事欠く民衆が連日のように穀物運搬車を襲撃している。
植民地絡みの戦費及び奢侈からくる国の財政難は深刻で、隣国への貸しは膨らみ続けていた。
関係者の利害の対立もあって、何年も前から進めている鉄道の敷設は思うように捗らず、このままでは優れた工業力を持つ隣国に溝を開けられる一方だ。
主要産業である繊維業もここしばらくは低迷が続いている。
政治の状況も芳しくなかった。
議会では選挙における不正が続発し、その議会と対立してきた国王も頻発する暗殺未遂事件にただ怯えて、居室に隠れているだけだ。
若かりし日にはそれなりの政治手腕を発揮していたという王も、今や六十歳を越えて肉体的にも精神的にも老いている。
現状を憂える知識人達はあちこちで集会を開き、この国の行く末を好き勝手に論じている有様だ。
このままでは国は傾くばかりだろう。
今手を打たなければ、本当にどうしようもなくなる。
何一つ自分の手に残らなくなる前に、名ばかりの王には消えてもらわなければならなかった。
ジュヌヴィエは弾を込め終わった銃を扇の下に忍ばせると、優雅に立ち上がって言う。
「行くわ」
「畏まりました」
ジュヌヴィエは侍女を従えていくつもの輪を描く水晶のシャンデリアの下を歩き、部屋を出た。
長い廊下を進んで国王の部屋の前で足を止めると、ドアを挟んで控える衛兵が恭しくジュヌヴィエに礼を取る。
ジュヌヴィエは侍女に外で待つように言うと、一人中へと足を踏み入れた。
正面の壁には大きな壁画。
このルーヴェリアの初代国王が乱れた国を平定し、神から王位を授けられる様が描かれている。
神には姿形がないため、その存在は人々の視線を集めることで表現されていた。
王の頭上で王冠の代わりに輝く光が、統治の正当性を物語っている。
床には織りの細かい大きな絨毯が敷かれ、硝子戸の向こうに並ぶ本の背表紙を金箔の精緻な細工が飾っていた。
銀の刺繍のカーテンがきらめく窓の側には、流れる雲に似た彫刻が足に施された木製の書き物机がある。
その机の前で、デュドネ・オルレア・ルーヴェリアは何をするでもなく、ただ背中を丸めて椅子に腰掛けていた。
厳しい現実から目を背けるように、その目は壁に向いている。
デュドネは壁を見たまま振り返ることもなく、平坦な声で言った。
「……お前が来るとは珍しい。何用だ?」
「少々お願いがあって参りました」
ジュヌヴィエはそう言うと、隠していた銃を露わにし、その銃口を真っ直ぐに王へと向けた。
「速やかに退位して下さいませ」
デュドネはゆるりと振り返った。
睨むでもなく、ただ覇気のない虚ろな目でジュヌヴィエを見つめる。
逃げるつもりすらないらしい。
仮に逃げたとしても、どこまでも追い掛けて殺すつもりだったが。
ジュヌヴィエはデュドネに銃を向けたまま言った。
「王とは国の主にして国の象徴。老いたあなたはもう王であるべきではありません」
「……確かに私はあまりに老いた。だがお前にこの国を立て直すだけの手腕があるかな。国を治めるということは、勉学や男遊びとは訳が違うぞ」
「そんなことは死にゆく者が心配することではないでしょう」
ジュヌヴィエは迷わず引き金を引いた。
「なあ、ところでお前らってどういう関係なんだ?」
小屋に向かって舟を漕ぎながら、ジェスは傍らに浮かぶレリアにそう問いかけた。
どう見ても血縁ではないし、利害関係があるようにも見えない。
それなのにどうして一緒にいるのだろう。
そんなジェスの疑問に、レリアは軽い口調で答えた。
「魔王は只の知り合いだよ。私は友達になりたかったんだけど、魔王は人間とは友達になれないんだって。存在の格が違うから無理なんだって。友達って、お互いが対等だと思ってないとなれないんでしょ? 魔王が言ってた」
とりあえずレリアと魔王がさして親しくない間柄だということはわかったものの、どうにも要領を得ない。
そもそもレリアに訊いたのが間違いだったのだろう。
こんな幽霊の中でもとりわけ頭の軽そうな幽霊から、まともな答えが得られる筈もない。
ジェスは質問の矛先を魔王に向けた。
「あんたら、一体どういう関係だ?」
「我等は契約関係にある。我は我を招喚した者と契約を交わすことができるのでな」
ジェスは眉を顰めた。
どうやら魔法か何かの話のようだが、その手の知識がないジェスにはまるで訳がわからない。
「どういうことだ?」
「我を招喚した者は何らかの代価と引き換えに我と契約し、願いを叶えることができるのだ。叶えられる願いは我の力が及ぶことに限られるがな」
「どうでもいいけど、人間の願いを叶えてあんたに何の得があるんだ?」
「損得の問題ではない。招喚されれば契約し、願いを叶える。それが魔法的な決まり事になっているのでな」
「何でまたそんな決まりがあるんだよ?」
「理屈じゃないんだよ。そういうものなんだって」
魔王に代わってレリアがそう答えると、今度は魔王が言った。
「我に得がない訳ではないぞ。多少の暇潰しにはなる。どうせ有り余っている力だ。多少人間にくれてやったところで、どうということはない」
「へえ、魔王ってのは伊達じゃねーんだな」
「だからこそ人間は、我を神とも呼ぶのだろう」
ジェスは目を瞬かせて魔王を見た。
「何だ、あんた神との兼業だったのか」
「単に呼び名がいくつかあるというだけのことだ。聖法使いには神、魔法使いには魔王と呼ばれている。我が世界を創った訳でも、死者に裁きを与える訳でもないがな」
聖法使いとは聖職者のことで、俗世で不思議の力を使う魔法使いの対義語だ。
幽霊がこの世を彷徨う原因の一つは、聖法使いにきちんと弔われなかったからだと言われている。
ジェスは更に問いを重ねた。
「あんたの話が本当だとすると、神が世界を創ったってのはでっちあげってことか?」
「断っておくが、我が身分を偽った訳ではないぞ。人間は不可解なものに説明を付けたがるものだからな。夢などを通して少々人間に干渉したところ、そういうことになったのだ」
「なるほどな」
ジェスは深く納得した。
これがいきなり夢に出てくれば、神か魔王かの二択しかないだろう。
この目が潰れそうに麗々しい姿で思わせぶりな言葉の一つも吐けば、もう完璧だ。
聖法使いならほぼ全員が神だと思うだろうし、魔法使いなら魔王だと思い込むことだろう。
容姿一つで騙される人間などいくらでもいる。
ジェスが内心やれやれと思っていると、レリアが無邪気に魔王に微笑みかけた。
「ただの夢だと思われなくて良かったね」
「存在を認知されないことには、招喚されようがないからな」
わざわざ自分の存在を知らせて自分を招喚するように仕向けるとは、念の入ったことだ。
一体どこまで暇なのだろう。
ジェスは大いに呆れ返ったが、すぐに気を取り直して言った。
「なあ、聖法使いが神を招喚するのはまだわかる。でも魔法使いはどういう繋がりで魔王を招喚するんだ? 聖法使いが神に力をもらってるみたいに、魔法使いも魔王と何か関係あるのか?」
「ジェスはちょっと勘違いしてるよ。名前が違うだけで、聖法使いも魔法使いも同じものなんだ。使ってる力が同じだからね。だから魔王は聖法使いが呼んでも魔法使いが呼んでも、ちゃんと招喚に応えてくれるんだよ。私の所にもちゃんと来てくれたもん」
「で、願いは叶ったのか?」
「叶ったよ。だから今こういう姿なんだ」
「まさかお前、『幽霊になりたい』なんて馬鹿なこと願ったんじゃねえだろうな」
ジェスはレリアの透ける体を無遠慮に眺め回した。
この馬鹿なら、そんな訳のわからない願いでも平気で口にしかねない気がする。
レリアのこの姿が魔王と契約してもたらされたものだとしたら、レリアが死んでいないと言うのも頷けた。
「幽霊になるのも悪くなかったかも知れないけど、私が願ったのはちょっと違うよ」
レリアは不躾に視線を向けるジェスに気を悪くした風もなく小さく笑うと、その無垢な笑顔に今にも壊れてしまいそうな危うさを混ぜて続けた。
「『死にたくない』って願ったんだよ」
「死にたくない?」
レリアはこくりと頷いたが、ジェスにはどうにも腑に落ちなかった。
どこをどうすれば、この姿が『死にたくない』という願いを叶えたことになるのだろう。
「俺にはお前がとっくの昔に死んでるようにしか見えねえけどな。どうでもいいけど、そんなんじゃ生きてるって言わねえんじゃねえか?」
「そうかな? でも、いろいろ便利だよ?」
レリアは躊躇いもなくジェスの胸に腕を突っ込むと、そのまま胸から生やした腕を上下に軽く動かして見せた。
「物にぶつからないっていいよねえ。知らない人の体に入るのはちょっと嫌だけど」
ジェスは櫂を大きく動かしてレリアの腕から抜け出すと、その見ていると眠くなってくるような顔を思い切り睨め付けた。
「遊ぶんじゃねえ! 体から腕生やされる気色悪さがてめえにわかるのか!?」
ただ幽霊を見たり声を聞いたりするだけでなく、勝手に体を通り抜けられたことも数え切れない程あった。
ほんの一瞬のことでも、体の中を通り抜けられるのは見ず知らずの人間に家の中に入って来られるよりずっと気分が悪い。
ジェスがレリアを思いきり睨み付けると、レリアはその鋭い視線から逃げるように天井へ飛び上がって早口で言った。
「ごめん。今日はもう帰るね」
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