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第1章 プロローグ
浅くなっていた眠りが破れた。
目は閉じたままだったが、目蓋越しに光を感じないことから、まだ夜であることがわかる。
肌にはシーツと布団の柔らかな感触。
心地良いベッドの中で再び眠りに落ちようとしていると、ドアが開く小さな音が空気を揺らした。
毛足の長い絨毯に吸い込まれて足音はしなかったが、人が近付いてくる気配がする。
その歩みがベッドのすぐ側で止まると、温かい手が首に伸びてきた。
女のものだろう。
華奢な手だった。
それに甘くていい香りがする。
その香りを楽しんでいると、不意に細い指が首に食い込んできた。
喉を搾るように容赦ない力で締め付けてくる。
無我夢中で手を引っ掻いたが、手は一向に緩む気配を見せなかった。
それどころか、更なる力で喉を締め上げてくる。
空気を求めて大きく口を開けても、入ってくるものは何もない。
耳の奥がガンガンと聞いたことのない音を立て、痛む頭は壊れそうだった。
柔らかさとは裏腹に鋼のようにびくともしない手から強過ぎる悪意が伝わって、目尻に涙が滲む。
何も悪いことなどしていない筈なのに、どうしてこんな目に遭わなければならないのだろう。
一体誰がこんなことをしているのだろう。
薄く目を開けると首を絞めていたのは母親で、声にならない叫びが口を突いた。
※
夜は深く、辺りには死にも似た静寂が広がっていた。
空を覆う黒い雲が縞を低く静かに描き続けている。
その空を小さな尖塔が突き上げていた。
城の敷地の端にぽつんと佇むその塔は、太い主塔の他に細い副塔を一つ従えている。
闇によく馴染む灰色の屋根と、月明かりがなくても闇に白く浮かぶ壁。
ほっそりとしたその姿は首を伸ばした白鳥のように優美だったが、手入れをする者がいないせいで、外壁は蔓草に蹂躙されるままになっていた。
その塔の上階にある部屋で、レリアは小さくくしゃみをした。
年の頃は十五、六。
膝裏まで伸びた緩く波打つ髪は、薄紅がかった金という珍しい色だった。
病弱なこともあって子供の頃からほとんど日の当たったことのない肌は、透き通りそうな程白い。
二人といないような愛らしい面差しは柔らかな印象で、笑顔がよく似合いそうだったが、しかし波一つない海のように澄んだ瞳の底には悲しみが重く沈んでいる。
飾り気のない寝巻きに包まれた体はあまりに細く儚げで、どことなく幽霊めいた風情だった。
レリアは一頻り鼻をぐずぐずさせてから気を取り直すと、隙間なく本が並んだ書棚に書き物机を苦労して寄せた。
それから月と星の明かりが降り注ぐベッドを何とかクローゼットの前まで押しやり、部屋の中央にちょっとした空間を作る。
肩を小さく上下させながら熱くなった頬が冷めるのを待ち、部屋の中央にしゃがみ込むと、レリアは暖炉と蝋燭の光を頼りに紙に描いておいた魔法陣をチョークで床に描き写し始めた。
描いているのは魔王招喚の陣だ。
魔物の王たる者は自らを招喚した魔法使いと契約を交わし、願いを叶えてくれるのだという。人間にはない不可思議な力を持つと言われる魔物の中でも、魔王は卓越した存在のようだった。
その力を借りることができれば様々なことが可能になるだろう。
だが基本的に人と魔物とは相容れないものだ。
ここしばらく戦になったことはないとはいえ、互いに厳格な棲み分けを行って没交渉の姿勢を貫き続けている。
魔王に至っては、この世界とは異なる領域に居を構えている程だ。
魔王と契約できると言っても魔王を支配できる訳ではないし、下手をすれば殺されてしまうかも知れない。
それでもレリアはやめようとは思わなかった。
どうしても叶えたい願いがあるのだ。
そのためなら、多少の危険は厭わない。
レリアは働くことを知らない綺麗な指で魔法陣を描き続けた。
大小様々な円と線が組み合わさった複雑なそれは、王たる者に相応しい絢爛なものだ。
東西南北の方位を持ち、世界を表す四角形を基本の形として、中央に魔王が降り立つ円がある。
方位を間違えないよう、コンパスを頼りに魔法陣を描き上げると、床に大輪の花が咲き乱れたようだった。
レリアは魔法陣を踏まないように歩いてチョークやコンパスを引き出しに戻すと、大きく息を吐く。
そうして世界の息遣いに合わせるように緩やかに呼吸を繰り返して、高まる鼓動を落ち着かせ始めた。
するべきは集中で、緊張ではない。
目を閉じて静かに肩を上下させていると、しばらくして心が完全に凪いだのを感じた。
レリアは深く息を吸い込むと、ゆっくりと唇を動かし始める。
「……我、魔法の使い手にして魔法の僕。理を学び、それに従う者。矮小なる人の身で、魔の王たる者に呼び掛ける許しを請わん」
招喚の言葉。
そのごく一部を口にしただけで、レリアは押し潰されそうな程の負荷を感じた。
負荷を感じているのは精神であって肉体ではないというのに、そんな錯覚を感じる程の負荷だ。
確かな手応えを感じて、レリアは唇の端に笑みを滲ませた。
今までにこんなものを感じたことはない。
魔法とは本来言葉などなくとも発動するものだが、敢えて言葉による指針を付けて、行為の明確化と確認をしたことが良かったようだ。
レリアは目を閉じたまま、自分で作った招喚の言葉を詠じ続けた。
「礎たる大地は命を抱き、万物を吹き抜ける風は命を運び、たゆたう水は命を潤し、踊る炎は命を燃やす。星が巡り、世界は回る。高きものは低きへ。有は無へ。世界を支配す秩序の内に、より高き世界に存する汝を招かん」
詠唱が進む程に負荷が大きくなり、体中からどっと汗が吹き出てきた。
鎮めた筈の胸の鼓動が高まっていく。
大いなるものに近付く予感に、心と体が震えた。
レリアはともすれば折れそうになる膝に力を入れて、懸命に体を支える。
この膝が折れてしまったら、心も折れてしまうに違いない。
「言葉は力持て。心は強く鋼のように。捧ぐ記憶は惜しみない。我、汝との契約を欲する者。今言葉以て二つの世界を繋ぐ扉を開かん」
魔法陣がかっと黒い光を放った。
あちら側と通じたのだ。
魔法陣越しに大いなる存在を感じる。
肌が痛みにも似た感覚を訴え、心なしか部屋の空気が変わった気がした。
魔法陣を扉として維持するため、凄まじい勢いで記憶が喰われていく。
魔法は心で使うもので、使えば必ず記憶が失われるのだ。
記憶どころか命まで喰らい尽くされそうな勢いに、喉が恐怖で塞がれそうになる。
レリアは懸命に声を絞り出し、悲鳴のような声で願った。
「魔の王たる者に希わん。我が呼び声に応え、その力を我が前に示し給え!」
レリアは大きく息を吐き出すと同時に、力なくその場に座り込んだ。
もう気力という気力を使い果たしてしまって、しばらく魔法を使えそうにない。
だが、ここまでしても何も起こらなかった。
今度こそ上手く行ったと思ったのに。
レリアが肩を大きく上下させながら項垂れていると、強い風にも似た威圧感がその体を打った。
はっとして顔を上げると、魔法陣の中心から何かが音もなく浮き上がってくる。
それは人に近しい姿をしていて、男のように見えた。
年は二十代半ば程だろう。
黒い血のように鮮やかで派手な黒髪。
冷たそうな白い肌。
深過ぎて、何も読み取れない漆黒の双眸。
上品な笑みが似合いそうな唇。
見る者全てを屈服させるような烈しい美貌は、凄艶の一語に尽きた。
足元より遥かに長く流れる黒衣は、熱せられた銀さながらの青を湛えた石に飾られた豪奢なもので、男によく似合っている。
たゆたう闇さえ男の美貌をくすませることはできないのか、男はレリアの目にひどくくっきりと映った。
その背には黒い羽。
蝙蝠に似たそれは畳まれていても大きく、立派だった。
これが魔王なのだろう。
恐ろしいまでに美しく、その力は場が歪みそうに強い。
気の弱い人間なら、魔王を前にしただけで狂死してしまいそうだった。
レリアが息をすることすら忘れて魔王を見上げていると、魔王がつまらなそうに言う。
「いつまでそうしているつもりだ?」
魔王が艶やかなよく通る声で紡いだ言葉で、レリアはようやく我に返った。
美貌を鑑賞するために魔王を呼び出した訳ではない。
レリアはごくりと唾を飲み込んでぎくしゃくと立ち上がると、掠れた声で魔王に話し掛けた。
「……あなたが魔王、だよね?」
「人間からはそう呼ばれているな。神などと呼ぶ者も多いが」
「魔王は私の願いを叶えてくれるんだよね?」
「そうだ」
「願いって一つだけ?」
「基本的にはな。願いを補助するための願いは別だが」
魔王は一度言葉を切ると、静かに続けた。
「願いを聞こう」
レリアはゆっくりと願いを口にした。
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