第2章 ー3ー

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第2章 ー3ー

 闇が泥のように蟠る路地裏で、ジェスは両手できつくナイフを握り締めていた。  慣れない覆面が鬱陶しい。    緊張で我知らず呼吸が荒くなり、高まる鼓動のせいで胸が痛かった。  ジェスは今にも崩れそうな膝に力を入れて、何とかその場に立ち続ける。  その鋭い眼差しの先には地面に這い蹲った男。  オルガに割かれた腹からは、血が溢れ続けていた。  虫の息だが、まだ死んではいない。  オルガが仕損じた訳ではなく、わざと殺さなかったのだ。    この男に止めを刺すことが、ジェスに与えられた初めての仕事だった。 「……やれるか?」    オルガの問いかけに、ジェスは黙って頷く。    何か言えば声が震えてしまいそうだった。  今まで人を殺したことはおろか、刃物を向けたことさえない。  本当は怖くてとてもできそうになかったが、そんなことを言えばきっとここにはいられなくなるだろう。  だから平気な振りをした。  ここで生き抜くと決めて仕事に同行させてもらったのだから、きちんとやり遂げなくてはならない。    一度殺してしまったらもう引き返せないことを思うと余計に怖くなったが、ジェスは覚悟を決めるとゆっくりと歩き出した。  血溜まりを避けて男に歩み寄る。  男が濁った目で見上げてきたが、ジェスは固く目を閉じてその視線を遮った。    自分が手を下さなくても、どうせこの男はもうすぐ死ぬ。  だからそれ程罪悪感を覚えることはない。  ただナイフを振り下ろしさえすればそれでいい。  簡単だ。  きっとできる。    ジェスは何度も心の中でそう繰り返しながら息を詰めると、両手で力任せにナイフを振り下ろした。  ナイフ越しでも肉の固さと命の消えゆく感覚が、妙に生々しかった。       ※  小屋の中で目を覚ましたジェスは、毛布に包まったまま二、三度瞬きをした。  炎が爆ぜる小さな音がする。  揺らめく炎に合わせて揺れる闇は朝とも夜とも付かず、時間などとてもわからなかった。  ジェスがのそのそと体を起こして時計を見ると、時計の針は十時を指している。  夜は交代で見張りをすることになっているが、昨日は当番ではなかったので、ついつい寝過ぎてしまったらしい。  子供の頃の夢を見たのは久し振りだった。    ジェスはリディ達に挨拶をしてから、するりと毛布を抜け出した。  外に出て顔を洗い、口を濯ぐと、カンテラを持って一人舟に乗る。    情報収集に行くのだ。    屋敷が今どうなっているか、警察がどう動いているかといったことを調べておく必要がある。  出掛けにオルガが一緒に行こうと言ってきたが、断った。  いくら不幸が体に染み付いているとはいえ、この年になって子供扱いされたくない。  おまけにリディには全くそんなことを言わないのだ。  役に立つところを見せて、昨日しくじった分を取り返さなければならなかった。    ジェスは気合いを入れて舟を進め、横手に大きな穴が伸びた所で舟を止めた。  用があるのはこの穴の先。  だが水路はそちらの方には走ってはおらず、穴の前にはジェスが乗ってきた舟と同じようなそれが五つばかり並んでいた。  ジェスと同じように舟で出入りする者のために、十本ばかりの鉄の棒が打ち付けてあって、そこに舫綱が括り付けられている。  ジェスは舟を下りると手近にあった鉄棒の一つに舫綱を括り付け、カンテラを手に穴へ入った。    中はなだらかな坂になっていて、天井が低い。  頭をぶつけないように気を付けながら、ジェスは極力足音を忍ばせて歩いていく。  カンテラと共に移動している時点でどこにいるか宣伝しているようなものだが、ああいう仕事をしていると、不用意に自分の存在を知らしめるような真似をすることには抵抗があった。  仕事以外の時は堂々としていればいいとオルガは言うが、こそこそするのが習い性になってしまっていて、上手く切り替えができない。    ジェスが足早に歩を進めていると、何を思ったか不意に幽霊の一人が突進してきた。  ジェスは咄嗟にカンテラを手放し、転がって幽霊を避ける。  幽霊が上を通り過ぎて行ってしまってから、幽霊にはぶつからないことを思い出して、ジェスはひどく苦々しい面持ちになった。 「……俺、何やってんだろ」  幽霊が見えない人間からすれば、何もないのにいきなり地面に転がった変人だ。  しかし、正面から突っ込んでくるものを避けずにやり過ごすのはなかなか難しい。  せめて来ることが予めわかっていれば、心の準備もできるのだが。    ジェスが落としたカンテラを拾ってとぼとぼと歩き出すと、やがて行く手に明かりが見えてきた。  賑やかな人の声も聞こえてくる。    程無くして平けた場所に出ると、そこは酒場になっていた。    『大杯と葡萄』という名のその酒場は、ひどく歪な空間にある。  元は石の採掘場だったのだろう。  高い天井は凹凸が激しく、壁も平面とは程遠い。  ヴェリリエールにはこういった採掘場がいくつもあった。  出鱈目に石を切り出していたせいで、いつ都市全体が陥没してもおかしくないと冗談半分に言う者もいる程だ。  実際時々地面が崩れて人が落下したり、建物が壊れたりする事件が起こるので、あながち冗談でもないのだろう。    ここもいつ崩れるかも知れなかったが、地面には木製のテーブルが所狭しと置かれ、それぞれのテーブルに置かれたランプが辺りの闇を払っていた。  ランプの側にはワインの入ったグラスが並び、中にはトランプが広げられているテーブルもある。  そうしたテーブルを囲んで大声で笑っている者もいれば、管を巻いている者もいた。  客は年齢も性別も様々で、ただ一つの共通点と言えば、日の下を堂々と歩けない事情があるということだろう。    ここはそうした連中の溜まり場だった。    生気に満ちた混乱の中、少女と言うには薹が立った姉妹がどこか気だるそうに働いている。  元は二人共どこぞの家の女中だったと言うものの、姉妹揃って身持ちが悪く、暇を出されて様々な男を渡り歩いている内にこういう商売に落ち着いたらしい。  二人を囲っている男が与えたというこの店には、大抵それなりに客が入っていた。  辺りには噎せ返るような酒の匂いが、煙草や阿片のそれに混じって濃く漂っている。  喧騒が反響して、ひどく耳障りだった。    ジェスは乱雑に置かれたテーブルや酔い潰れた男達を避けて、壁際に設えられたカウンターへ歩いていく。  席に座ると、いかにも蓮っ葉そうな姉妹の姉が手を動かしながらジェスを見て言った。 「おや、あんたが一人なんて珍しいじゃないか。喧嘩でもしたかい?」 「違えよ。適当に一杯くれ。一番安いやつでいい」 「はいはい。全く、景気が悪くていけないね」  女はランプを手に、近くにある穴へと姿を消した。  中はワインセラーになっているのだという。  女は程無くして一本のワインボトルと共に戻ってくると、慣れた手付きでワインをグラスに注ぎ、ジェスの前に置いた。 「お待ちどお」  ジェスは黙ってグラスを傾けたものの、飲み込むことなく盛大にグラスに吐き出した。  手の甲で口元を拭っていると、女が露骨に嫌な顔をして言う。 「ちょっと、あんた何してんだい? 汚いじゃないか」 「何してんだはこっちの台詞だ! 傷んだもんを客に出すな!」 「おや、傷んでたかい?」 「傷んでるなんてもんじゃねーよ!」  ジェスは拳で力一杯テーブルを叩いた。  あのワインの味は最早言葉では表現しようがない。  あまりに破壊的で、味覚が駄目になってしまうのではないかと思う程だった。  最後に味わったのがこの傷んだワインだったりしたら、死ぬまでこの年増を呪うしかない。 「何てもん出しやがる! このババア!」 「ちゃんと味を見てから客に出すような店に行きたきゃ、さっさと出て行きな。その一杯分のお代はちゃーんと払ってもらうけどね」 「あこぎな商売しやがって、その内欲の皮が張り過ぎて千切れんぞ! っつーか、俺が千切ってやる!」  ジェスが指をばきばきと鳴らした途端、突如腹の底まで響くような咆哮が響いた。    思わず声の方へ向けた目に、信じられないものが飛び込んでくる。    そこにいたのはライオンだった。    こんな所に生息している筈もないが、恐らくは地上の動物園から逃げ出して来たのだろう。  立派な鬣を揺らして人間ごとテーブルや椅子を蹴倒し、ライオンは我が物顔で辺りを駆ける。  あちこちで悲鳴や怒号が上がり、客達が我先にと逃げ出した。  逃げ切れなかった不運な客が、ライオンに跳ね飛ばされて人形さながらに吹き飛ぶ。  あまりに現実感が乏しくて、全てが幻なのではないかと思える程だったが、これ程生々しい幻覚もないだろう。  食われるなど、断じて願い下げだった。  これだけの人間がいればそうそう標的にされたりはしないだろうし、今の内にさっさと逃げた方がいい。    ジェスはカンテラを摑むと、すぐさま立ち上がったが、どうにも嫌な予感がした。    そしてこれまでの経験上、大概それは当たっている。    ジェスがそろりと振り返ると、何を思ったか突進してくるライオンが目に入った。  気に入られたのか、はたまた何か気に食わなかったのか、ライオンは脇目も振らずにジェスに向かってくる。  ツキがないのもここまで来ると筋金入りだった。 「ったく、何で俺なんだよ!」  ジェスはカンテラを放り出して、袖口に隠していたナイフを取り出すと、迷わずライオン目掛けて投げ付けた。  だがライオンはしなやかな身のこなしで体を捻り、ナイフを紙一重のところでかわす。  その動きにはどこか余裕さえ感じられて、辛うじて避けたと言うより、避けるために必要な最小限の動きに留めただけといった風だった。  更に数本のナイフを投げてみたが、やはり当たらない。  舌打ちする間にもライオンとの間合いは縮まっていて、ジェスは仕方なくライオンに背を向けて逃げ出した。  数々の不幸で追い詰められる度に鍛えられた足には自信があるが、相手はライオンだ。  必死で走ったところで振り切れるとは思えない。  涙も出ない程絶望的な状況だったが、大人しく食われるのを待つつもりはなかった。  死にたくないし、人を殺してまで生き延びてきたのだから、そう簡単に死んではやれない。    だがそんな思いとは裏腹に、不幸はどこまでも付き纏ってくる。    ジェスは倒れた椅子に躓き、まずいと思った時には地べたに這い蹲っていた。  慌てて起き上がろうとした背中に容赦なく重さがかかり、押さえ付けられる。  ジェスが首を捻って上を見ると、ライオンのしなやかな前足がしっかりと背中に乗っていた。  爪が服を通して肌に食い込む。  ライオンの口が大きく開かれ、一噛みで楽々肉を食い千切るであろう獰猛な牙が覗いた。  赤い舌が血を求めるように蠢く。    ジェスが息を止めて痛みに備えた時、不意にライオンの姿がぐにゃりと歪んだ。  あれ、と思った時には、体にかかっていた重さがふっと消えている。  小麦畑に似た金色の毛並みが黒ずみ、全き漆黒となって溶けた。  漆黒は生き物のようにうねり、伸び、やがて人に似た形を取っていく。    その姿を見て、ジェスは思わずあっと声を上げた。    闇が晴れた後に現れたのは、長い長い漆黒の髪に飾られた白皙の美貌。    魔王だった。 「あんた……!」 「半日振りだな」  魔王はジェスの背中の上で悪びれもせずにそう言った。  軽いどころか全く重さを感じないが、乗せられたままの手は不思議とびくともしない。    ジェスは冷たい石の上に寝転んだまま、魔王を軽く睨んだ。 「どういうつもりだよ。死ぬかと思っただろうが」 「そう睨むな。少々茶目っ気を出してみただけだ」 「……あんたが意外とお茶目なのはよくわかったから、とりあえず退いてくれ」  魔王が長い裾を払ってジェスの上から退くと、今度は床からレリアの生首が生えてきた。  心臓が跳ねる。    いかに緊張感のない顔をしているとはいえ、床に生えた生首は不気味としか言いようがなかった。    ジェスが思わず鳥肌を立てていると、レリアの頭のみならず体も床から浮き上がり始める。  レリアが爪先まですっかり姿を露わにしたところで、ジェスはようやくレリアを睨むだけの余裕を取り戻して言った。 「お前、いたんなら魔王止めろよ」 「えー、だって面白そうだったんだもん」  レリアはいかにも楽しそうにくすくすと笑った。  自分の楽しみのために他人の迷惑を顧みない辺り、魔王といい勝負かも知れない。  ジェスはレリアの鼻先に人差し指を突き付けて言った。 「物知らずなお前に一つ教えてやるけどなあ、悪ふざけってのは笑って許せるもんを言うんだよ!」 「笑えない?」 「全っっ然笑えねえよ! 大体、お前ら何しに来たんだ!?」 「勿論遊びに来たんだよ」  レリアはジェスの剣幕に臆することなくそう言った。  そもそも怒られているということが理解できていないのかも知れない。 「人を殺しかけるのが遊びかよ! 言っとくけど、相手なんかしねえぞ! 俺は忙しいんだ! お前らのせいで話を聞く奴が一人もいなくなっちまったけどな!」  ジェスは倒れていた椅子を拾うと、レリアに向かって怒りと共に投げ付けた。  いつの間にか、店にはジェスとレリアと魔王しかいない。  悪ふざけをした二人にも腹が立ったが、ジェスは自分にも腹が立った。  只の情報収集すら儘ならないとは、どこまで使えないのだろう。  このままでは、本当にオルガ達に見放されてしまうかも知れない。    ジェスが投げ付けた椅子がレリアの体を素通りして壁にぶつかると、レリアはやっとジェスの怒りを理解したらしく、おろおろと言った。 「ご、ごめんね。聞きたいことあるなら、私が話すよ」 「本っ当に何にもわかってねえな! てめえはよ!」 「え、私じゃ駄目なの?」  混乱して泣きそうな顔になっているレリアに、魔王は静かな口調で言った。 「その少年が聞きたいのは警察の動向などだろう。其方では力になれないと思うが」 「そうなの?」  レリアの問いかけを、ジェスは無視した。  転んだ時に捻ってしまったらしく、痛む片足を引き摺りながら持ってきたカンテラを拾い上げると、元来た道を辿り始める。 「あ、待ってよー」  レリアが宙を飛んで纏わり付いてきても、ジェスの足は止まらない。 「ねえ、待ってってばー。聞こえてるんでしょー? ねえってばー」  レリアがやたら甘えた声で話し掛けてきたが、ジェスは徹底的に無視し倒した。  目も合わせない。  初めからこうすれば良かったのだ。  幽霊を見えないものとして扱うのはごく自然なことで、寧ろそう扱うべきものなのだから。  いくら暇人とはいえ、相手にしなければその内あきらめて帰っていくだろう。  話などしたのがそもそもの間違いだったのだ。  おかげでつい同情などしてしまった。  だがもう二度とこんな連中に関わるものか。    穴を抜けたジェスは、一艘だけ残っていた自分の舟に乗ると、カンテラを舳先に下げて乱暴に舟を漕ぎ始めた。  この足では、今日は大人しく帰るしかない。  徹底的に「付いて来るな」という意思表示をしているにも関わらず、レリアはまだジェスの側を離れようとはしなかった。  そんなレリアを追って、魔王も近くに飛んでくる。    ジェスが二人に一瞥も与えることなく更に舟の速度を上げると、レリアが魔王に縋った。 「ねえ、どうしよう? ジェスが怒っちゃったよ。何とかできない?」 「やってみるとしよう」  魔王はそう言うと、優雅に暗闇を駆けてジェスを追い越した。  前に回り込んだところでゆるりとジェスに向き直り、背中の羽を大きく広げてくる。  行く手を阻まれたジェスは仕方なく舟を止めたものの、魔王と目を合わせようとはしなかった。  目を伏せて魔王が退くのを待っていると、魔王の問いが降ってくる。 「幽霊が見えなくなればいい、とは思わぬか?」  ジェスは思わず目を上げて魔王を見た。  もう関わり合いにならないと決めていたし、ずっと抱き続けていた願いを言い当てられたことを気味悪くも思ったが、何故わかったのだろうという好奇心の方が勝った。 「……俺、あんたにそんなこと言った覚えねえけど?」 「我は過去を見ることができるのでな、其方の望みを知ることなど造作もないのだ」  俄かには信じ難い話とはいえ、恐らく魔王の言うことは本当なのだろうとジェスは思った。  見事に自分の願いを言い当てたのがその何よりの証拠だろう。  認めるのは癪でも、過去を知られているのでは否定など無意味だった。    ジェスは魔王を見据えて挑むように問い返す。 「だったら何なんだよ?」 「我なら其方の望みを叶える手助けをしてやれるぞ」 「嘘吐きやがれ。できる訳ねえだろ。あんたが世界中の幽霊消してくれるってのか?」 「我がその気になれば容易いことだ。だがそこまでする必要もないだろう。助言をしてやる。後は其方が己の力で見えなくなればいい」  その尊大な物言いが、ひどくジェスの癇に障った。  この取り澄ました綺麗な顔に傷の一つも付けられたらさぞかし痛快に違いない。  だが幽霊が見えなくなるというのは魅力的な話だった。  あれが見えるせいで、これまで散々苦労させられてきたのだ。  見えなくなれば失敗することも多少は減るだろうし、レリア達と決別するのはそれからでもいいかも知れない。  あくまで魔王の言うことが本当だったら、の話だが。    ジェスは魔王に向ける眼差しに疑念の色を足した。 「助言って、そんなんで本当に見えなくなるのかよ?」 「其方等が幽霊と呼び習わしているものは、肉体を離れて彷徨っている人の心に過ぎない。そしてその心を知覚するのもまた心だ。目では形あるものしか見えないように、心は心でしか感じられないとでも言えば理解できるか?」 「なあ、つまり幽霊はちゃんといる訳か?」 「いるぞ」  半信半疑ながらも、ジェスは少しだけほっとした。  魔王の言葉はずっと待ち続けていたものだったから。  生前の悪行が原因で神に見捨てられ、この世を彷徨い続けている存在が幽霊だと聖職者は説明しているが、オルガにもリディにも幽霊は見えない。  只の作り話でなく、自分がおかしい訳でもなく、他人に見えないものが自分には見えていただけ。  ただそれだけのことであって欲しかったが、これまでずっと確証が持てずにいたのだ。 「なーんだ、昨日からずっと私を幽霊呼ばわりしてたのに、ジェスは幽霊信じてなかった訳?」  小さく首を傾げたレリアの問いに、ジェスは歯切れ悪く答えた。 「まあ、あんまりな」 「どうして?」 「俺以外の奴に見えてねえんじゃ、俺の幻かも知れねえだろ」 「えー、でもそれっておかしくない? 私は昨日からずっと魔王と話してたんだよ。私がジェスの幻なら、魔王に私は見えない筈だもん」  言われてみれば、レリアの言う通りだった。  酒場の客が魔王の化けたライオンに怯えて逃げ回っていたことからすると、魔王は自分以外にも見えているとしか思えない。  こんな簡単なことを、『馬鹿』の見本のようなレリアに指摘されて気付く羽目になるとは思わなかった。    早くこの不愉快な話題から離れようと、ジェスは話を戻して魔王に尋ねる。 「……本当の本当に見えなくなるんだな?」 「断言はできぬな。其方次第だ」 「じゃあ、もう一つ訊くけど、それはとんでもなく金がかかったりするのか?」 「いや、其方の心一つがあれば事足りる」  それならやってみるのもいいかも知れないと、ジェスは思った。  特に損をする訳でもないなら、試してみるのも悪くないだろう。 「言っとくけど、あんたとは幽霊が見えなくなるまでの付き合いだからな」 「ねえ、私も?」  自分を指差して邪気なく尋ねるレリアに、ジェスはぴしゃりと言う。 「当たり前だろ! っつーか、お前は来んな! とっとと失せろ!」 「えー? どうせなら一緒に教えてもらおうよ。私も魔王に心の使い方を習ってるところなんだ」  レリアはジェスから魔王に視線を流すと、小さく首を傾げた。 「ねえ、魔王もその方がいいよね?」 「そうだな」  ジェスはちっと小さく舌打ちした。  魔王の思い通りに事が運ぶのは面白くなかったが、ほんの少しの我慢だ。 「本っ当の本っっ当に、幽霊が見えなくなるまでの付き合いだからな」 「いいよ。元はと言えば私達が悪いんだし……」 「反省してんなら、二度とあんなふざけた真似すんなよ。次はねえからな」  レリアは神妙な顔で頷いた。
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