SCENE4

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SCENE4

 店の入り口の重厚な扉が開くのを、諒太は目ざとく視界の隅で捕らえた。すぐにその客が、十日ほど前に流に連れて来られた客だと気づく。  帽子から靴まで全身黒ずくめだが、ジャケットの胸元だけが赤い。  こういう気取ったファッションをするヤツは嫌いだ。しかも写真家だとかで、どうやら優とも昔なにかあったような雰囲気なのが気にさわる。  その客、稲森隼人は、やはり隼人のことを覚えていたらしい他のスタッフ達にわいわい歓迎され、勧められるままに豪華な黒革のソファに座った。それを見届けて、諒太は笑顔を作りながら近づいていく。  隼人が遠慮がちにきょろきょろしているのは、優を探しているのだろう。 「……あの、さ。優さん、いる?」 「あ、やっぱりうちのナンバーワンに目つけちゃいました? 今接客中なんで、とりあえず俺でどうですかあ?」  諒太は後輩を押しのけ、隼人の隣に座った。優とは対照的な、がっちりした体格の諒太を見て、隼人の眉がほんの一瞬しかめられる。  隼人がこの前、優と話したくても結局そのチャンスを得られなかったのを、諒太は見ている。この前は久々に流が来たというので、スタッフも客もない宴会になってしまった。だから、改めて一人で来てみたのだろう。 「接客中って、どこにもいないじゃん」  諒太はわざとらしいほどに残念そうな顔をして、 「実は奥にVIPルームがあるんですよ」 と言いながら、隼人にビールを注いだ。 「でも、そろそろ出てくるんじゃないスかね」  隼人は生返事で深々とかぶっていたキャスケットを取り、乾杯するつもりだった諒太に気づかず、ぐっとビールをあおる。笑顔でなにか言おうとした諒太も、隼人の鋭い横顔を見て思わず黙った。  間違いなく、この客は優の昔の男だろう。久し振りの再会で、優への未練に火がついたのかも知れない。流はそうとも知らず、自分で自分の首を絞めてしまったのだろう。そう考えると、諒太は暗い喜びを覚えた。  いったい、何年前の男だろう。優はこの数年で、ますます艶っぽくなってきた。未練が燃え上がっても不思議はない。冴えた月のような、落ち着いたたたずまいから漂う色気が甘い。  それに、笑顔。あやうげな、人生を悟りきったようなはかなさが、明るさに変わり始めている。優を磨いたのは、認めたくないが流だろう。  タクシーの窓越しに見た、ごく自然に肩を並べて歩いて帰る二人。近所に住んでいる優を、流が送り届けてそれで終わりのはずがない。悔しかった。それを隼人も見ているはずだ。 「そんな露骨につまんなそうな顔しないで、楽しく飲みましょうよう」  顔自体の出来は大違いだが、目の前の端正な顔も同じ感情をまとっているのは明らかだ。こいつが優と流の仲を邪魔してくれたらと、諒太は隼人に期待した。 「だって、会いたかったんだもんよ」  予想通り、隼人の形よく整えた眉が歪み、甘ったれた声。諒太は内心ほくそ笑む。 「ちょっとしかいられなかったが、出張前に会えてよかったよ」  ふいに、諒太には馴染みのある、上品な低い声が聞こえた。優の前々からの客、会社の重役風のスマートな老人が、優の肩をさも愛しげに抱いて隼人の脇を通り抜けていく。隼人は二人の背中を、じっと目で追う。  優の香りが、風にかすかに色づけてすぐ消える。すべての障害物を刺し貫いて優へと向かう、隼人の視線。たぶん、無意識なのだろう。諒太は自分の期待通りの展開を予想した。 「じゃ、俺はお邪魔みたいなんで失礼しますね」  言葉とは裏腹に、気分よく立ち上がる諒太。流にこのまま優を取られるぐらいなら、この写真家にかき回してもらい、そのあげくに優が写真家のものになっても、その方がまだマシな気がした。 「優さん、この前の写真家さん来てますよ」  諒太は隼人の名前をしっかり覚えていたが、あえてそう優に告げる。 「あっ、そう、ありがと」  優の笑顔に、かすかなとまどいと喜びがないまぜになるのを、諒太は見逃さなかった。さりげなく見ていると、近づいてくる優に、隼人は見とれているようにも見えた。  今日の優は細い身体の線が美しく強調される、グレーのスーツを着ている。それが一着何十万もする有名ブランドの物なのを、諒太は知っていた。  お邪魔みたいなんで、と席を離れた手前、諒太は隣の客の輪に混じり、優と隼人の会話が聞こえるポジションに座る。 「来てたんだね。いらっしゃい」  いつ聞いても、酔わせる声だ。ざわめきの中でも、諒太の耳はしっかり優の声を拾う。 「びっくりしたよ」 「俺の方こそ」  短く言葉を交わし、ビールで乾杯する二人。思い出を共有している者同士、多くは語らないのか。 「あのさ、俺さ、今度作品集出すことになったんだ」 「え、ほんと? おめでとう」  まぶしく笑ってグラスを掲げる優。二度目の乾杯に隼人の手が震えるのが、諒太の目の端に映る。隼人は今、強烈に欲情しているのかも知れない。諒太は自身の想像に、さっきまでの自分の甘い考えを後悔した。 「優さんの写真も載せたいんだけど、いいでしょ?」 「いいよ。約束したもんね」  当然のように答える笑顔。約束という言葉が、諒太の耳に刺さる。二人の間で使われるこの言葉に、甘美でありながらほろ苦い、過去がにじんでいるように思えた。 「優さん、明るくなったよね」  そうかな、と優は少し首をかしげる。宝石を秘めたような、黒目がちの瞳の輝き。それが昔も今も変わらないのかどうかを、隼人は知っている。それがうらやましく思え、諒太は唇を噛みしめた。 「あの頃はひどい暮らしをしてたから」  これ以上は無理だ。心がえぐられるばかりだ。諒太はさりげなく輪を抜け、トイレに逃げこんだ。  好きな相手のことはすべて知りたくなる。そういうタイプの人間を、これまで諒太は馬鹿にしていた。特に、優のような人間のすべてを知ろうなんて間違いだ。語りたくない思い出の多さは、真っ当に生きてきた人間の比ではない。  そうだ、二人の間の思い出が言葉にしたくないほど大事なものだから、言葉少なだとは限らない。あの頃はひどい暮らしをしてた、と優は言った。お互いにあの時代から抜け出して、それなりに立派になった今を、二人は噛みしめているのかも知れない。  知らず知らずのうちに爪を噛んでいた諒太は、冷えた心にようやく血の気が戻ったような気になった。  おもむろに首を回し、大きなため息。  自分が変えられていく。それほどまでに真剣に優を想っているのに、周りからは冗談で片づけられている。確かに、見た目では釣りあわない。  のそのそとトイレの個室から出て、諒太は鏡に映る自分を見つめた。しおれた瞳。長く描きすぎた眉の先がにじんでいるのを、片頬で笑う。  流も隼人も、恵まれた容姿と才能を持っている。ブサイクな自分には、他になにがあるだろう。金はない。精力も、年を取ればあっという間に衰える。  やりきれない。絶対に、このまま終わらせたくない。
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