SCENE8

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SCENE8

 話があります、と石田の携帯の留守番電話にメッセージを入れた。すると折り返しの電話でやけに明るく、じゃあサザンテラスで会おうと言われた。  諒太は約束の当日、石田の意図が読めず困惑気味に、サザンテラスにやってきた。指定された場所はチェーンのコーヒー店。  すぐ分かるようにテラス席でラテを飲みながらきょろきょろしていると、石田が悠然と歩いてくるのが見えた。よく見るスーツ姿とは違い、ラフなジーンズに黒の形のいいコートを着て、無造作にマフラーを巻いている。買い物をしていたのか、手にはいくつもの紙袋。 「やあ、どうしちゃったの? かなり挙動不審だけど」 「いや、石田さんと仕事以外で会うなんて、緊張しちゃって……」  迫られたら喜んで抱かれてしまいそうな、有無を言わせない毅然とした色気を石田は持っている。自分がまったく石田のタイプではないと分かっていても、一対一で会うとなると、諒太は緊張せずにいられない。 「俺もコーヒー飲みたいなあ。買ってくるわ」  とまどっている諒太の心中を知ってか知らずか、石田は荷物を諒太の足元に置き、ふらりとカウンターに向かう。その若々しい背中を、呆けたように眺める諒太。自分が買いに行くべきだったのでは、ということにすら思い至らなかった。  石田はエスプレッソを飲み終えると、店を出てタクシーに乗った。行き先は西新宿の外資系高級ホテル。諒太はそれだけでどぎまぎして、落ち着かない気分になる。  ホテルに入った石田は、近づいてきたスタッフに荷物を託した。諒太はまさか部屋を取っているのかと驚いたが、石田はそのまま慣れた様子でエレベーターへと向かう。 「いつもの、窓際の席空いてる?」  四十一階のバーに着くと、石田の一言で景色が一望できる窓側のカウンター席に通された。明らかに石田は常連として丁重に扱われている。  吹き抜けの天井まで、ぐるりと一面ガラス張りの店内を、諒太はおどおどと見回した。フロアの中央には竹が植えられ、控えめにライトアップされている。よく見れば、黒が基調の内装や家具にもさりげなく竹が使われていた。いつもファストフードや居酒屋ばかりの諒太には、いたたまれないほどの洗練された高級感だ。 「彼にも、僕と同じものを」  石田の深みのある声音と、目の前の闇をまとっていく美しい景色に目がくらむ。まさか自分からの誘いを石田がそう受け取るはずがないと、諒太はなんとか気を取り直した。 「諒太君とこんなとこで飲むなんて、これが最初で最後だろうね」  へっ、と思わず変な声が出た。こんなに緊張したのは久しぶりで、諒太は胸を押さえながら片頬で申し訳なさそうに笑ってごまかす。 「たまには恋人をこういう所に連れて行って、いい気持ちにしてあげないとダメだぞ」  諒太はそう言って笑う石田に、どう返すべきか分からず、黙った。 「やだなあ、そういうつもりでここに来たんじゃないよ。ここは奥さんのお気に入りでさ、今日も夫婦で泊まってるんだ。ま、奥さんじゃない人と来ることもよくあるけど」  子供っぽく笑う石田。諒太はようやく、乾杯しようとする石田に笑顔を返すことができた。 「さて、話を聞こうか」  辛口なのにすうっと飲めてしまう、これまで飲んだこともないカクテルに驚いていた諒太は、はっとしてグラスを置いた。 「ここのマティーニ、うまいだろ? 度数高いから、飲み過ぎないようにな」 「は、はい……」  石田に圧倒されっぱなしだ。しっかり覚悟してきたつもりだったのに、これでは駄目だ。諒太は大きく深呼吸してマティーニを一口飲むと、目の前で輝く夜景を見つめながら言った。 「俺、この世界から足を洗おうと思うんです。店も辞めることにしました」  流にあんなことをした以上、もうあの店にはいられない。優をきっぱりあきらめれば、自分の醜さと対峙し続ける生活ともおさらばだ。 「そう、それがいいよ」  石田はあっさり即答して、グラスに口をつけたまま微笑む。 「あ、あの……」  諒太は思いきり肩透かしを食らって戸惑った。一大決心を、指先一つでいなされてしまった。 「店長から聞いてるよ。ちゃんと俺にも挨拶してくるような君なら、きっとどこでもやっていけるよ。今のうち、まともな職業について、まともな相手を見つけた方がいい」 「は、はあ」  つまり石田は、この世界には似あわない男だと思いながらも、自分を働かせていたということなのか。早く辞めればいいのにと、思っていたのだろうか。 「俺は見守っていく。君は去る。それがお互いのためだよ」  なにを言っているのだろう。よく分からない。思わず石田を見つめて言葉を待っていると、目尻のわずかな皺すら端正な顔が、困ったように口の端を上げた。 「優は、諒太君とは無理だよ」  驚きのあまり、声をなくした。石田はすべて分かっていたらしい。 「でしょ?」  難しいクイズの答えが分かった子供のように、得意げに笑う石田。 「悔しいけど、秋山にやろう」  何度も諒太の肩をたたく石田。ため息を飲みこみかけて、諒太は鼻をかすめた香りにどきりとした。優の香水に思えたのだが、石田は妻と泊まっていると言ったのだから、まさかそんなはずがない。 「事務的なことは、またあとで事務所に来て」  これはたぶん、残念会だ。石田も誰かに言っておきたかったのだ。 「おかわりもらおうか。もちろん俺がおごるから、心配しないで」  石田は背後を振り返り、ウエイターにメニューも見ずにつまみも注文した。 「オーナー、いろいろすみません。ごちそうになります」 「いいって。俺はたぶん送別会行けないから、その代わりだよ」  胸が変にざわめくのを感じながら、新たに運ばれてきたマティーニで、諒太は改めて石田と静かに乾杯した。
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