SCENE10

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SCENE10

 寒い。  優は深いため息をつきながら、布団をあごが隠れるまで引き上げた。  またろくに眠れないままに朝が来た。しかも念のためにかけておいたアラームが鳴るまで、あと二時間もある。  あれから、流に何度か電話もLINEもしてみたが、流は出ず返事もない。  枕元に置いたスマートフォンの画面に、なにか通知が来ている。急いで開くと、絶対に約束に遅れないでくれという、隼人からのLINEだった。  いよいよ発売になる初の作品集を発売前に直接手渡したいとかで、今日は隼人と会う約束をしている。店に来ればいいのにと言ったのだが、隼人は昼間二人で会いたいと言い張った。店だと周りに騒がれる。それが嫌だったのかも知れない。  それにしても寒い。優は布団にくるまり、手にはスマートフォンを握ったまま、ただぼんやりする。もう今では、日常のあらゆる動作がおっくうだ。店も二日連続で休んでいる。  じっと、手に持ったスマートフォンを見つめる。こんなに誰かからの連絡を待ち続けたことはない。自分から何度も連絡したこともない。返事が来ないことがこんなに苦しいだなんて、知らなかった。  流も、こんな思いをしていたのだろうか。昔つきあった男達はどうなのだろう。こんな自分のために、みんなつらい思いをしていたのだろうか。  人を想うということを、その痛みを、やっと本当に知った気がする。  優は三十分ほどして、よろふらと瀕死の獣のようにベッドを出た。一度動きを止めてしまったら二度と動けなくなりそうで、暖房をつけ着替えを取り出し、それを小脇に抱えたままトイレを済ますと、そのまま脱衣所で裸になって熱いシャワーを浴びた。  ひげを剃ろうと鏡に向かう。顔色は悪く、まぶたは腫れ目の下のくまも色濃い、よどんだ顔が映る。ふいにおかしくなって、優は笑いを噛み殺した。  今でこそこんな顔をしているが、つらさも次第に薄れ、やがてなんでもなく暮らせるようになる。それが分かっているだけに、よけいにせつなく、かなしく、おかしかった。  二人で会いたいと言ったはずの隼人に、連れがいる。思わず立ち止まった優を隼人は目ざとく見つけ、笑顔で手招きした。  隼人の連れはいったい誰なのか、女性だった。きっちりとしたジャケットを着て、髪型も化粧も気を使っている様子が見て取れる、年は四十近いと思われる颯爽とした雰囲気。 「時間通りだね」  優を迎えた隼人はうれしそうだったが、いくらか緊張しているようだ。向かいにいた女性が立ち上がり、そつなく名刺を取り出して優に挨拶する。 「……ファッション誌の、副編集長さん……?」  つぶやきながら、優は思わずじっくりと名刺を見てしまった。女性の名刺にはある大手出版社の名前があり、早速テーブルに出された女性ファッション誌は、優にも見覚えがあった。 「ほら、これ。これ見て、優さんに惚れこんだんだって」  隼人が出来上がった作品集を、優に差し出す。ぱらぱらとめくってみる優に、女性は静かだが熱っぽく、連載のうちの数回、モデルをやって欲しいと優に説明を始めた。  すでに部内でもこの人に出てもらおうということで決定しているのだと、女性は雑誌の連載ページを見せながら、まっすぐに優を見据え何度も繰り返した。撮影も隼人がやることに決まっているらしい。 「いや、でも僕は単なる素人ですし……」  優は断ったが、女性の押しは強く、よいお返事を期待しています、と言い残し、先に一人で帰っていった。 「すげえいいチャンスだと思うけどな。優さんだって、いつまでも二丁目でやってくつもりじゃないでしょ? 秋山のこともあるだろうし」  隼人がなにげなく言った言葉が、優のこころを鈍くしつこくたたく。耳を覆いたくなる。  流と順調にいっていれば、迷いもなくこの話に飛びついたかも知れない。運よくこれが仕事に繋がっていけばなによりだし、そうならなくても足を洗う第一歩にはなるだろう。 「なに、どうしたの? 秋山となんかあった?」  優がぼんやりと視線を上げると、隼人は困ったような顔でくしゃりと笑っていた。 「ああもう、病み上がりかと思ってたら、そういうこと? まったく、やめてよそんな隙だらけの顔」  隼人は大げさにため息をついて見せる。 「まさか優さんがこんなに恋愛に左右される人だなんて。ますます被写体として興味出ちゃったなあ。やるって返事しなよ、楽しみにしてるから。じゃ、俺もう行かないと」  隼人も慌ただしく席を立ち、優は奥まった席に一人になった。ほとんど手をつけていなかったコーヒーを飲み、もらった写真集を眺める。  流のおかげで、自分は変われた。流といれば幸せだ。ずっと一緒にいたい。今ははっきりそう言える。だがもう、流は電話にも出てくれない。  あの夜、流が言いかけた言葉。それが決定的な理由だったに違いない。  そう言えば、流と諒太の間になにかあったのだろうか。仲がよかったはずが、流に送別会に行かないのかと訊いた時、一瞬表情がこわばったように見えた。  次の瞬間、脳裏に火花が散る。  コーヒーカップを口に運ぶ手が、止まる。全身から血の気が引いていく。  諒太は、あのことを知っていた。流は出張のことを話そうとするのをさえぎり、優君はそうやって、と次を言おうとして言えなかった。  たぶん流は、知ってしまったのだ。  優は深く頭を抱えた。胸がズキズキ痛んだ。  それでも、会いたい。無視されても、罵倒されてもいい。流に会いたい。隼人に言われるまでもなく、こころの半分以上があの日流に持っていかれたままのようだ。  会いたい。
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