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優の部屋は、五階建てのマンションの最上階にある。流はあえて階段を選んだ。ゆっくり、足元を見つめながら階段を登る。
一段一段登るたびに高まる鼓動。緊張してはいるが、気持ちは凪いでいる。なぜか今は、たとえ部屋に他の誰かがいても、優と笑って別れられるような気がする。
トン、と靴底が軽い音をたてて階段を登りきる。冬枯れの新宿御苑の上だけ、都会の空が広い。
流はしばらく、風景が闇に沈み、その代わりに色とりどりの光がいきいきしだすのを見ていた。優はずっと、こんな景色を眺めながら出勤していたのだろうと思うと、目の前の空がそこだけ広く高いことに感謝したくなって、唇が緩む。
流は身体の向きを変え、マンションの廊下を奥へと歩いた。突き当たりが優の部屋だった。
「あっ……」
ずきりと心臓がうずいて、あわててスマートフォンを入れたポケットを押さえる。気のせいではなかった。着信を知らせる震え。優だ。
「ねえ流ちゃん、今どこにいるの?」
もしもしと言う間もなく、優の弾んだ声がする。
「え、どこって……。優君の部屋の前だけど……」
どうして、優は楽しそうなのだろう。そう思いながらも、声を聞いた途端緊張が溶ける。
好きだ。やっぱり、優が好きだ。だからこそ、失ってもいい。その方が優の幸せになるなら。
溶けた心はすぐ、そんな意志でまた固まる。
「すぐ、帰ってきて」
優も外にいるようだった。声だけでなく、息も弾んでいる。
「え? 今どこ?」
自然に目が空を見て、視線がまっすぐに伸びていく。さえぎるものはなにもない空。
「早く! 早く帰ってきて」
語尾が震えた。たぶん、優は笑っている。晴れた日の雲のように。
「待ってて!」
電話に向かって一言叫ぶと、流は登ってきたばかりの階段を一気に駆け下り、タクシーを拾って自宅の住所を告げた。
帰ってきて、としか優は言わなかった。でもそれだけで伝わった。優が待ってくれている。お互い、会いたいと思っていたのだ。
道は空いていた。タクシーが流の住むマンションがある道に入ると、黒いシルエットがぽつんと立っているのが見えてきた。
「流ちゃん」
タクシーがマンション前で止まり、後部座席のドアが開くなり、声。
優だ。本当に優だ。優によく似あう、あの黒いコートを着て笑っている。
「……マジ……? なんで……」
そうつぶやくのがやっとの流の前で、優が笑みを深くする。たゆたうような笑顔。優がここに来たことは、確か一回だけだ。
「俺すごいよね、一発でちゃんとここ来れたよ」
優は笑っている。幸せそうに、まっすぐに流を見つめて。
ひどいことをした。一方的に、優を拒み続けた。それなのに、そんな自分に優は笑ってくれる。
「近くで、仕事だったんだ」
会いたかった。なのにいざとなると、目の前の優を見つめるだけで、動けない。
流ちゃん、と一音一音確かめるように、深く柔らかな声で呼ぶ笑みが、少しずつ無垢なはにかみを帯びていく。細められた瞳は、すっかり笑みに埋まってしまっている。
「ありがとう」
次に続く言葉を、流は静かに待った。ひそかに覚悟を握りしめる。
「とにかく、それだけ伝えたくなって。俺さ、流ちゃんといてさ、」
急にぐしゃりとゆがむ笑顔。優は全身でぶつかるように抱きついてきた。
いつもの優の香りが、鼻先でほわりと舞う。
「……優君、俺でいいの?」
反射的にゆるく抱きしめると、優の腕がぎゅっと切実に抱きしめ返してくる。
「この状況でそういうこと言う流ちゃんがいいんだよ」
きつく流の胸に顔を押しつけているせいで、優の声はくぐもっている。泣いているようにも聞こえた。
「ごめん、ごめんね、優君」
いつもの優の香りに包まれ、流は腕の中のぬくもりを、飢えを満たすように全身で味わう。ここがマンションの前だということも忘れている。
隼人の言うとおりだった。つまらないことにこだわってしまっていた。好きなら、一緒にいればいい。優のぬくもりは、こんなにもこころも身体も癒してくれる。
「ダメだね」
唐突なつぶやきにどきりとして優から離れると、優は流の手を引いた。
「こんなところで抱きあってたら、スキャンダルになっちゃうよ?」
優は冗談っぽく言うと、マンションのエントランスへと、流の手を引いて歩いた。
「俺も、優君にお礼言いたくて。もう優君が他の誰かといたっていいって、思ってた」
エレベーターの中で、流はぽつりと言った。二人の手は、しっかり繋がれている。
「俺も、同じようなこと思ってた」
優の消え入りそうな低いその声に、流はまた愛しさが湧きあがるのを感じた。部屋に入るまでの、わずかな時間さえももどかしい。
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