SCENE3

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SCENE3

 俺は、苦しいのは嫌だよ。  優にはそんな言葉で、別れを告げた男がいた。出会った頃は写真家としての一歩を踏み出したばかりで、名を稲森隼人といった。  まっすぐにがむしゃらに、優を美術品に入れこむように愛した。月に何回かモデルとして写真を撮られる、ただそれだけの関係だった。  隼人にとって、優は理想の美らしかった。ポーズや目線を変えたり、髪を整えたり。隼人は優をよりよく撮るために触れても、性的に触れることはなかった。そうすることは、優という美を汚し、侮辱することだと本気で思っていたようだった。  隼人が信じているような、美しいものでいたいと、優は願った。同時に、そんな関係がすぐ破綻するだろうことも分かっていた。だから、「仕事」を見られ問いつめられて、その場で別れた。せめて、これ以上思い出を汚すことのないように。そう思った。  ほんの数年前のことなのに、星のように遠い闇に埋もれていた記憶。それが今日、一気に鮮やかさを取り戻してしまった。 「どうしたの、優君帰ってきてから一言も口きいてないんじゃない?」  心配そうに顔をのぞきこまれる。まっすぐで力強い眉。丸く愛嬌のある瞳。太く男らしい無骨な指が、優の長い髪を梳く。その仕草が一瞬、石田を思い出させた。  秋山流。この優しい男は、いつも優を心配してくれている。  流は自分が太陽だということが分かっていない。売れっ子になったのも、世間がその光に気づいたからだ。流には、周りを照らす存在でありながら、暑いだろうと自ら雲に隠れてしまうような、そんなところがある。  かねてから漠然と思っていたことを、そんなふうにうまく言葉にしてくれたのは、誰だったか。  優は、自分はまさに月だと思っている。昼間から空に浮かんでいるのに見えにくく、闇に沈んでいく中で光を得る。こうして、流や石田、いくつもの太陽の光に照らされながらでないと、生きていけない。 「そう?」  少し微笑んで、優はごそごそと流に抱きつき肩に頭を預けた。流の身体からは、かすかに柔軟剤のような匂いがする。いかにも流らしいと、優は思う。 「……稲森、いい男だったでしょ?」  流は優を抱き寄せながら、どこかぎこちなく言う。優と隼人の間に流れていた妙な空気を感じ取ったのだろう。 「そうだね。でも、俺のタイプじゃないや」  ひそやかにつぶやく優に、流は目だけで笑った。安心があからさまに出ている、人がよさそうな瞳。その柔らかな光が、じんと優の胸にしみる。  今日、偶然にも流が、隼人を店に連れてきた。二人は雑誌の撮影がきっかけで仲よくなったという。確か年も同じ、二十六だ。あの頃駆け出しだった隼人も、それなりに写真家として成功してきているらしかった。  俺は、苦しいのは嫌だよ。  流に不器用にキスされながら、あの日告げたように、胸のうちでつぶやいてみる。  今こそ、流にこそ、この言葉を使うべきなんじゃないだろうか。  そうは思っても優はいつも結局は、この少し不格好でもとても暖かい毛布にくるまれることを選んでしまう。流の想いを全面的に受け入れることも拒むこともできずに、ふとした時にこの幸せに甘えたくなる。  こいつは俺なんかと一緒にいていい男じゃない。俺なんかに気を取られてちゃいけない。ようやく手に入れた飛躍の糸口が今まさに手の中にあるのを、忘れちゃいけない。  そう思いつつも流とのキスに夢中になっている自分を、優は自覚していない。  流とのことは計算外で、予想外だった。  あの雨の夜、キスの後の、本当にうれしそうな無邪気な照れ笑い。流と自分では、全然キスの意味や重みが違う。そう気づいた時には遅かった。 「優君、やせた? やせたんじゃない?」 「そうかなあ、そんなことないと思うけど」  流は、二つ年上の優を君づけにする。大事そうに口にする、一音一音が甘い。  今日はなんだか、いつもと違う。肌をなでられると、するりとろりと表面が溶けていくようで、やけに安らいだ気分だ。 「こうしてると、マジほっとすんだよね」  自分の気持ちが声になったのかと、どきりとした。思わず流を見上げると、まばゆすぎる笑顔。  普通なら、もうとっくにお互い裸になっているだろう。でも流には別にじらしているつもりはなく、こうしているのが好きなだけだと気づくのに、少し時間がかかった。  こんな幸せの味わい方もあることを、優は忘れていた。初めて知った、と言う方が正しいかも知れない。最初はまどろっこしくて仕方なかったが、今ではそれも悪くないと思う。  そろりそろりと、どこか申し訳なさそうに優の身体のあちこちにふれる指。徐々に核心に迫ってくる手は、いかにも不慣れだ。 「だからもっと頻繁に会いたいんだけど、優君忙しいよね」  流は思いを素直に口にする。でもその言葉はいつも、優の都合を考えて遠慮がちだ。  流はおそらく、優が電話やLINEをわざと無視したり、あれこれ嘘をついてたまにしか会わないのを、疑いもしていないのだろう。 「明日仕事夜からだから時間ある、って思ったらさ、ここ来たくてそわそわしちゃって、稲森が嫌だって言おうが無理やり行く気でいたんだよ。そしたらあいつ、二丁目って聞いた途端盛り上がっちゃって、思い出があるんだって。どんな思い出だって聞いたって、教えてくんねえの」  太い眉の下の瞳がくるりと動いて、飼い主を見上げる犬のようだ。顔色をうかがう、少し情けないひょうきんさが漂う表情。  優はため息を飲みこむ。つまり、隼人のことを話して欲しいらしい。でもそれはできない。また流が心の中に一歩踏みこんでくるのを、許すことになってしまう。  駆け引きなんかしたくないのに、駆け引きめいたことばかりしている自分が嫌だ。人間もいっそ心なんかなくて、本能的な身体の関係だけだったらいいのに。そんなことを思う。  今までの優は、いつもそんなつきあいやむき出しの欲望を、かき分けたりかわしたり振りほどいたりして生きてきた。そこに躊躇はなかった。なのに流にだけは、そうできない。 「ねえ、なんで黙ってんの? 俺はもっと優君と会いたいんだよ」  ぎゅっと抱きしめられる。心細そうな声が、優の身体に切実に絡みつく。  動けない自分に、呆然とした。どうしたらいいのか分からない。流はすっかり俺に侵食されてしまった、とぽつりと思う。  明るさの陰に見え隠れしていた、真剣さとひたむきさを甘く見てしまった。後からでもなんとでもできるだろうと、切り捨てる手段を確認するのを怠っていた。  流には、見えていないだけだ。流のようにのびのび素直に育ってきたヤツには、俺はとげで鎧ってるも同然だ。苦い自嘲とともに、優は思う。自嘲を噛みしめ、目を閉じる。  もう必要性も特にない「出張」を続けたり、相変わらず石田と寝たりしてふらふらしてるのも、このとげのせいだし、その方が気楽だからだ。本物の月のように、特定の誰かのためになんて、いられない。  流が望むような関係になっても、先に悲鳴をあげるのは流に決まっている。だから、たまにしか会わないこのままがいい。たぶん、それが一番いい。 「……俺なんかとちゃんとつきあおうと思ったら、大変だよ……」  あくびをかみ殺して、優は流の肩に言葉を埋めた。突き放しているつもりで、実は子供のように流の服の裾をつかんでいる自分に、気づけないままに。
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