SCENE3

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 翌朝。目を覚ました流がまず感じたのは、優の香水のかすかな香り。それと、優の頭の重みのせいでしびれた右腕。そのしびれさえ幸せで、流は優の黒髪を、左手で起こさないようにそろそろとなでた。  グレーのカーテンは遮光なのか、光があまり入ってこない。壁に何着か服がかかっている以外は、あえてそうしているのか時計すらない。優の寝息と、自分の呼吸音だけが聞こえる。  本当にただ寝るだけの部屋でこうしていると、世界に二人だけになったような気さえして、くだらないが悪くない。  ふと思い出すのは、あの雨の夜。いつも流は、あの雨の夜を思い出すと心がほくほくする。だが現状を思うと、途端に湯気で湿った紙袋のようにしおれてしまう。  結局、またはぐらかされた。流はひそやかなため息をつく。手を伸ばしても、優はもうそこにはいない。いつもそうだ。  CLUB ONEにバイトに入り、そこそこ客もついた数ヶ月後。盛大な送別会を開いてもらって飲み明かした、その朝。  流は舞台の役作りのために二丁目でバイトした、という「秘密」を、優にだけ告げた。それは流にとっての精一杯で、告白と同じ重みを持っていた。  とはいえ、さすがにそんなことだけじゃ駄目だろうと、流は暇さえあれば店に遊びに行った。他の人にはその出演舞台のチケットを買ってもらったが、優にだけはこっそりいい座席の招待券を渡し、あやしいと周りにはやされるようになった。  でも、役者として初めて、人に誇れるような大舞台に立った姿を、優には見てもらえなかった。その代わりに託されたという花束と伝言。終演後にもらって事実を知った瞬間、流の充実感はバンジージャンプのように谷底に落ち、引き戻されずに宙をさまよった。  フォローするようなお詫びのLINEは来たものの、気持ちはおさまらない。舞台の楽日、軽い打ち上げが終わった後、流は攻めこむような思いで優に会いに行った。  霧雨の日曜日で客の引きが早く、日付が変わる頃に店に行くと、もうみんな帰ろうとしていた。流は一杯飲んだ程度で、優を傘に入れて送ることになった。  マンションまでのわずかな道すがら、優が濡れないように肩を寄せあって歩く。気持ちが昂ぶり、細い路地に入るなり流は優を抱きすくめた。 「大胆だね」  いつもの落ち着いた声で、優。言われて初めて、流は自分がしたことに気づいて驚いた。そんな流に首をかしげて優しく微笑み、優は流の濡れた左肩をそっと包んだ。キスを許してくれた。  幸せだった。ぬくもりがなじみあう感覚をむさぼりたくて、きつく深く抱きしめた。本当に幸せだった。  臆面もなく言える。あの夜は一生、最高にいい思い出であり続けるだろう。  俺って、優君にとってなんなんだろうなあ。  流はため息をついて、ぐっすり眠っている優の髪を、今度は強めになでた。  出会って約一年半、あの夜から半年以上。ちゃんとつきあおうと思ったら、と優は言った。身体も重ねているのに、優にはつきあっているつもりはないらしい。その感覚の違いが悲しい。  でも、いつだったか優の部屋に行ったと、店で働くうちに仲よくなった諒太に言ったら、かなり驚かれた。こうして泊まっているというだけで、充分特別なのかも知れない。  いや、この状況に満足してちゃ駄目だ。もっと押すぞ。  気合いを入れ直してスマートフォンの画面を見ると、もう午前十時を過ぎている。ソファで肩を枕に寝られて、ベッドに運んでも起きなくて。仕方なく流も寝ることにして、今に至っている。  会うの久し振りで、楽しみにしてたのに。ぽっとできた休みに勢いこんで押しかけても、これだもんなあ。  またため息をつきかけて、流は途中で飲みこんだ。  一緒にいたい。多くは望まない。ただ、こうしてそばにいたい。  ねえ、それだけなんだよ。俺は今よりもうちょっと、一緒にいる時間を増やしたいだけなんだよ。俺の話に笑ってくれる、その笑顔をそばで見ていたいだけなんだよ。  眠る優を見つめ、語りかけるように切実に願う。どんなに役者として売れようが、いい物を食べいい所に住もうが、好きな人といる幸せには勝てないと、流はまっすぐに信じていた。  ひたひたと近づいてくるせつなさに、思わず強く優を抱きしめる。身体がびくっと大きく跳ね、優が目を覚ました。 「あっ、ごめんね、起こしちゃって」  開かない目で流を見ようとする顔を隠す、寝乱れた髪をかき分ける。むくれたような顔を、かわいい、と思う。どうかせめて、優のこんな無防備な顔を見られるのが、今は自分しかいないようにと、願う。
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