act.02

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act.02

 ソーシャルワーカーの平野を探して病院内を歩き回っている内、結局杉野は、エントランスホールに出てきてしまった。  ── 受付への言伝を先に済ませるか・・・。  杉野は受付カウンターの前まで行って、ふと足を止める。お目当ての岸谷浩美は、接客中だったからだ。  見舞い客だろうか。見慣れない男が杉野に背を向けて立っている。  ラフな恰好だ。  濃いインディコブルーのストレートジーンズに黒のジャケット。だが、年頃は確実に杉野より年上で、おそらく三十五、六といったところか。  背が随分高く、がっしりとした身体つきを見て、一瞬外人かと思った。男の足元にある黒のボストンバックも男がしている腕時計や靴も、どこか全体的な雰囲気が日本人離れしているせいもある。  誰の見舞いなんだろう・・・と杉野が思っていたら、浩美が杉野に気がついた。 「先生! 丁度良かった」  その声に男が杉野の方を振り返る。  高い鼻。澄んだ瞳。男らしい顔つき。なぜか男の左手の薬指には結婚指輪のようなリングが二重に填められてあった。 「隼人君のお客さんです。丁度今、杉野先生にご案内をお願いするためにスタッフルームに電話しようと思ってたところなんですよ。先生、お頼みしてもよろしいですよね?」  浩美は、それが当然といった風情でそう言った。  それを聞いた男が、笑顔を浮かべる。途端に人懐っこくなった。  杉野は内心複雑な気持ちを抱えながら、あいまいに頷いた。  ── しかし何だって、隼人のことになると皆自分に声をかけてくるのだろう・・・。  杉野が憮然となるのは仕方のないことだ。  本来なら、別に杉野に言わずとも直接隼人を探せば済むのだろうが、ここ最近は皆ズボラをして、杉野に隼人の行方を訊いてくる者が多い。  梶山隼人はボランティアとしてこの病院に通ってきていたが、彼は他のボランティアと比べても精力的に院内を動き回った。医師や看護師などの正式スタッフとは違うので呼び出し用のベルも持っていない。したがって、この病院では最も掴まりにくい人間ではある。  しかも不思議なことに杉野は、事あるごとに隼人の居場所を素晴らしい的中率で当てていたので、いつしか皆が隼人の居所を杉野に訊くようになってきたというのが事の顛末だ。  杉野は浩美に患者の一件を伝えた後、隼人の客人であるという男を従えて院内に取って返した。  途中ソーシャルワーカーの平野を偶然捕まえて、清水さんの件を差し障りのない内容だけ告げ、先に進んだ。男は、杉野と平野のやり取りを尊敬の眼差しのような目つきで見ていた。  ── 一体何者なんだろう・・・?  杉野はそう思わずにいられなかったが、その疑問を男にぶつけることもできず、男を病院二階中央の院内で一番広いバルコニーへと案内した。  杉野の予想通り、隼人はバルコニーで煙草を吹かしていた。  院内は、基本的に禁煙となっている。院内でのパブリックスペースで唯一の喫煙場所がそのバルコニーだった。隼人は、イライラが極限まで達すると煙草を良く吸う。  さっき喧嘩したばかりだったのでバツが悪かったが、このまま途中で男を放り出す訳にもいかない。喧嘩はしたが、そのせいで大事な連絡事項を伝えなかったり、仲間外れにしたりとかということは、杉野のポリシーに反している。  ガラス戸を開けて、杉野は隼人に声をかけた。 「梶山」  隼人が、むっすりとした顔を杉野に向ける。杉野もむっすりした表情で先を続けた。 「お客さん」  隼人が、杉野越しその『お客さん』を視界に捕らえた時点で、彼の表情が明らかな驚愕に変った。 「羽柴さん!」  その境遇のせいか若い割に達観している隼人の珍しい表情に、杉野の方も驚いてしまった。思わず隼人と男を見比べる。 「何でアンタがここにいるの?!」  隼人にそう言われ、男は微笑みを浮かべてこう言い返した。「いちゃ悪いか」と。  口調は隼人に負けず劣らずの毒舌だったが、その表情は限りなく優しかった。  ── あれは、誰なんだろう・・・。  一頻り驚いた顔を見せた隼人が、ふいに弱気な表情を見せて抱きついた相手。  そしてそんなところを見られたテレ臭さか、益々むっすりした顔をして杉野に隼人が紹介した男。  羽柴耕造、と言った。  「どうも、羽柴です」と杉野に右手を差し出した男は、憎らしいほど清々しい微笑みを浮かべていて。  お世辞抜きで『いい男』だった。  その後、隼人が如何にも杉野に席を外せと言わんばかりの視線を送ってきたのを感じて、杉野は早々にその場を立ち去った。  ── 恋人、なんだろうか。  そう思った瞬間、杉野の中でゆらりと熱いものが揺れたが、正体は分からなかった。  廊下に出てすぐ日下部院長に呼ばれ、その後怒濤のように仕事の波に呑まれてしまったので、その感情は結局有耶無耶になってしまった。  杉野は、隼人がゲイであることを知っている。もちろん、HIVキャリアーであることも。  しかし杉野は、務めて興味のない表情を取り繕った。  興味がまったくなかった訳ではない。  本当のところ、物凄く気になった。  好奇心がまったくなさそうな顔つきをしていたが、それは嘘である。  隼人が昔どうやって過ごしてきたのか。どうしてこんな特殊な病院でボランティアをすることになったのか。  杉野が訊けば、恐らく誰かが大体の答えぐらいは教えてくれるような疑問だった。  けれど杉野は、それをしなかった。  杉野は何でも卒なくこなし、人当たりもいい。相手を不快にさせるようなことはまずしないし、相手を不安がらせない。決められたルールはちゃんと守る。余計な詮索はしない。誰も傷つけない・・・。  それは、杉野の要領のよさを現していたが、裏を返せば本当の自分をうまく表現できずにいるとも言えた。そして自分が傷つくことを最も恐れていた。大学病院でのあの一件以来、その傾向は余計に強まっていた。  自分の人生を揺るがせるような事件があったそんな時でさえも、人前では感情を表に吐き出せずに、ひとりでコソコソと泣いた。誰もいないところでないと、泣けなかった。  自分のエゴは押し殺して、事なかれ主義の道をついつい選んでしまう。本当の自分が曝け出せない。だが周りは、そんな杉野の方が居心地がいいので、誰も杉野の本当の心など気にかけない・・・。  いつしかそんな生き方が身体に染み付いて、杉野自身、自分には個性がないものだと思い込んでいた。  成績は優秀だが、それだけの人間。  自分の中の欲望も他人に関する露骨な好奇心も、自然のうちに「悪いことだ」と押し殺してきたのである。  皆に器用だと言われる自分。いつも完璧でいいねと言われる自分。  本当はそうじゃないのにと言いたいのに、言えない。  自分の殻を壊すことができない・・・・。  だから。  そんな杉野の前に現れた『梶山隼人』という人間は、全く持って驚異的な人間だった。  自分とは、まさしく対極にいる人間。  思った事はすぐ口にする。  自分の発言をオブラートで包むようなことはしない。  自分にも他人にも厳しい生き方をしている。  なんと真っ直ぐなことか。  それを「若いから」と片付けるのは簡単だ。  だが彼の場合、それは若さからくるものではなく、彼が人生の大切さを熟知しているからこその生き方なのだ・・・・と、病院のスタッフが言っていたことがある。  彼は、いくら薬物治療がうまい具合に効果を発揮しているとはいえ、健康な人よりは『死』に近い場所で暮らしている。そしてこの病院で、幾人もの人の死を見送ってきた。  華のある外見の持ち主なので、つい誤解を受けやすいキャラクターだが、その瞳は超然としていて、本物の悲しみを知っている光を湛えている・・・。  そんな隼人に出会って、杉野はまず腹が立った。  その感情が相手に対してなのか、自分に対してなのか、いまだに分からない。  多分『嫉妬』なのだろうと、杉野は思った。  感情を剥き出しにして、あろうことかこの自分の中にも土足でズカズカと上がり込んでくる。  まるで自分の中の恐怖を見透かされるようで、ついつい隼人とは喧嘩になった。  相手は相手でどう思っているかどうか分からないが・・・まぁ少なくとも好かれているとは思えないが・・・、隼人は隼人で杉野に対する攻撃の手は緩めなかった。  なので、杉野と隼人の関係を一言で口にするのは難しい・・・。  その日の晩、隼人は久しぶりに懐かしいバーに顔を出した。帰国した羽柴耕造と一緒に。  バー「ブラック・アンド・ホワイト」は、昔とちっとも変わらない佇まいでそこにあって、ドアを開けても昔と変わらない空気があった。  揃ってドアを潜った二人は、その何とも言えない懐かしさと、それを感じることができる喜びに顔を見合わせて微笑んだ。  その二人の姿をまず見つけたのは、マスターの矢嶋ではなく、常連客の桜子であった。もっとも『桜子』と言っても髭の剃り跡も真新しく腕も逞しい、かなり無理のある『女性』だが。 「あら!! まぁまぁ、今日はなんだっていうのぉ!!」  桜子があまりの驚きにすっとんきょうな声を上げたせいで、店中の客が一斉に隼人と羽柴を見つめた。一気にバツが悪くなって、また互いに顔を見合わせる。 「よう、久しぶりだなぁ。どこに座る?」  カウンターの中で、他の客のオーダーを準備していた矢嶋が顔を上げた。  ボックス席は埋まっているようだったが、幸運なことにカウンターはまだ一つも席が埋まってなかった。 「もち、カウンターでしょ、矢嶋さん」  隼人が素早く答えると、桜子が「うんまぁ~、この子ったら、相変わらずアタシとは酒が飲めないっていうのぉ!」と不平を言う。  隼人は桜子を見てイーと歯を向いて見せた。周囲の客から朗らかな笑い声が上がる。  羽柴も思わず微笑ましくなってクスクスと笑ってしまった。隼人がそんな羽柴の腕をグイッと引っ張ってカウンターの一番奥の席に腰を据える。 「矢嶋さん、ビール!」  大声を上げる隼人を横目で見ながら、羽柴は安堵とも取れるような溜息を零した。 「なに・・・、その溜息」  矢嶋から冷えたグラス二つと瓶ビールを受け取りながら隼人は口を尖らせる。 「いや、やっとあの梶山隼人が戻ってきたと思ってさ」 「なにそれ、どういう意味?」  隼人が怪訝そうな顔つきで羽柴を見る。  羽柴は、あの人なつっこい柴犬のような微笑みを浮かべたまま、矢嶋の出してくれた付きだしを箸で摘んでいる。「切り干し大根、懐かしいなぁ」とか言いながら。 「羽柴さん、ついにアメリカから帰ってきたの?」  矢嶋がそう切り出したので、隼人の質問は有耶無耶にされてしまった。  まぁ、いいかと思いながら、羽柴と再会してからの自分を思い起こして、どこかおかしかったのだろうかと少しだけ不安になった。  その後、矢嶋や桜子を交えてかなりの量の酒を嗜んで、隼人も羽柴も大声を上げて笑いながら店を出た。  店の中では不思議と、深刻な話や暗い話題には一切触れなかった。  たとえそれが羽柴の今は亡き恋人のことに話が及んでも、楽しい思い出ばかりを話して皆で笑った。  その時も羽柴は機嫌良さそうにニコニコとしていて、時に戯けたりもしてみせた。彼は今も変わらず大らかで、広大な大地を行く大きなライオンのような強さを感じさせる。  本音を言うと、隼人はそんな羽柴をちょっぴり切なく感じた。  酒が思ったより進んだのは、そのせいだったのかもしれない。  悲しくないなんて訳あるはずがない。  今も癒えてないで当然なんだ。  現に、この俺だってそうなんだし。  矢嶋の質問に、「一時帰国なんですよ」と答えたのがいい例だ。  羽柴だって、彼との思い出が残る日本という国に帰るのが恐いに違いない・・・。 「なんだぁ! 元気ないぞ、隼人!!」  羽柴がそう叫んで、隼人の肩を大きな手のひらで叩く。 「痛い!!」  隼人は悲鳴を上げた。 「バカヤロウ! あんたの身体能力日本人離れしてんだから、手加減しろよ、手加減!!」 「あ、ごめん」  羽柴はそう言ってケタケタ笑っている。  本当に珍しいことに、羽柴の方が酒に呑まれていた。  隼人も羽柴と酒を飲んだのは、彼の恋人が亡くなってからの一ヶ月間で、それでも信じられないくらい随分と回数を重ねたが、その時でさえ羽柴が正体を無くすまで飲むことはなかった。寧ろ正体を無くすまで飲むのはいつも隼人の方で。  だから今日、いつも通りでないのは羽柴の方だった。  けれど隼人が怪訝そうに見上げても羽柴はそれに気付くことなく上機嫌で、隼人の肩を丸め込むようにして肩を組むと、駅に向かって歩き出した。  繁華街の賑わいはいつも通り。すぐに夜の新宿表通りの人ゴミに飲み込まれる。  ビルの窓には華やかなネオンサインの光が乱反射し、あるビルの大型ビジョンには、音楽情報番組が映し出されていて、まさにサイバーシティTOKYOの象徴たる風景が目の前に広がっていた。  まるでその風景に惹かれるように羽柴が足を止める。  急に歩調の合わなくなった羽柴を、隼人が見上げた。  そして、周りの風景が目に入らなくなる程、その表情から目が離せなくなってしまった。  今までの上機嫌な顔とはうって変わった、気難しい複雑な表情を浮かべた羽柴がそこにいた。  なんだかまるで泣き出しそうな顔つきにも見えて、隼人はドキリとする。 「・・・なぁ。あんた、本当は凄く悩んでるんじゃないの? だから日本に帰ってきたんじゃないの?」  隼人は、自分でも自覚するより前にそう口にしていた。  けれどそれは、羽柴が帰ってきた時からずっと感じてきた疑問だったに違いない。  そう言えた自分がいやにすっきりしていることに隼人は気付く。  羽柴には、いつも励まされてきた。  運命のあの日よりこの5年間、ずっと。  だから、うまくいかなくても、どうにかして羽柴の力になりたいと思っていた。  天の邪鬼な性分の隼人だが、らしくないと思ってもそれは大切なことと感じていた。  いつか、そうできる日がくることを願っていて。  今日がその日なんじゃないかって思えた。  羽柴はゆっくりと隼人の方に顔を向けた。  心配げな隼人の顔を見て、羽柴はどう思ったのだろう。  彼は少し苦い笑顔を浮かべ、くしゃくしゃと隼人の黒い髪の毛を掻き乱した。 「実は気付いたことがあって。お願い、聞いてもらってもいいかな」 「なんだよ。かしこまって」  そんな仲じゃないだろう、と口を尖らせる隼人に羽柴は言った。 「今日の宿取るのすっかり忘れてた。隼人、お前ン家に泊めて」  羽柴はそう言って、大袈裟に情けない表情を浮かべた。  隼人は羽柴の言ったことを少し考えて、次の瞬間「はぁ?!」と大声を上げた。 「あんた正気で言ってんのか?! 俺の部屋、四畳半だぞ!!」 「さっき遠慮するような仲じゃねぇって言ってくれたじゃないか」 「それはそうだけど、物理的に無理だって!!」 「や、なんとかなると思うけど」 「思わない!」 「大丈夫だって」  羽柴とそう言い合いながらまた歩き出した。  確実に隼人の部屋を目指して。
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