act.06

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act.06

 翌朝、その日は本当なら、昼から隼人の姿が病院にある筈だった。  その隼人がいないことに気が付いたのは、もう午後3時を回った頃で、杉野はスタッフルームの自分の席でカルテに記入をしながら、ハタと顔を上げた。 「そう言えば今日、梶山の姿、見てませんね」  ひょっとして貧血が悪化して倒れてるんじゃないか・・・などとろくでないことを考えながら杉野が呟くと、「やぁねぇ」と側に立つソーシャルワーカーの矢野が杉野の肩を叩いた。 「何寝ぼけたこと言ってるの。隼人君は今日羽柴さんを見送りに空港まで行くからお休みしますって、昨日のミーティングで言ってたじゃない。聞いてなかったの?」  矢野は普段杉野がしっかりしているから、杉野がそんな惚けたことを言い出すのが信じられなかったのだろう。だが、矢野は杉野の顔色を見て、顔を顰める。 「やだ。杉野君、大丈夫? 目の下、真っ黒だけど」  昨夜杉野は、自分の失恋について考え込みすぎて一睡もしていなかった。目の下にクマができるのももっともな話だ。  大丈夫です・・・と杉野はぼんやりと呟き、また机に向かった。  けれどカルテに書き込む手はすっかり止まって、ただ空虚な空気が流れるだけだった。  突然走り出した杉野の隼人に対する感情は、昨日唐突に、無理矢理途切れてしまった。そうかといって、すぐに何もなかっただなんてことなどできない。  ── けれど、諦めなきゃ・・・。  心の中でそう呟いて、杉野は手にしているシャープペンシルを力強く握った。  芯がパキリと折れて、どこかに飛んでいく。  ── ああ、俺はなんてバカなんだ・・・。  鼻の奥がツンとしてくる。  ── 後悔先に立たずとはこのことだ。もっと早く自分の気持ちに気付いてりゃ、こんなこと・・・。  そう考えて、杉野は首を緩く横に振る。  ── きっとダメだ。もし早く気付いていたとしても、俺は自分に知らんぷりして相手のことを避けていたに違いない。自分が相手のことを好きだと悟られるのが恥ずかしくて・・・。  まるで堂々巡りだった。  答えは、どこにもない。  そして誰もそれを教えてはくれない。  ── ああ・・・。  杉野が頭を抱えた時、窪内が杉野の名を呼んだ。 「おい、杉野! 電話」 「はい?」  杉野が呆然と顔を上げると、窪内がスタッフルームのカウンターにある電話の受話器を振り回していた。 「電話だよ。羽柴さんから」  その名前を聞いて、ギョッとした。  慌てて席から立ち上がって、思わず転けそうになる。  杉野は自分を落ちつかせるためにゴホンと咳払いを一つして、恐る恐る電話に出た。 「 ── はい・・・」 『あ? 杉野君?』  それは間違いなく羽柴の声だった。  恐らく空港から掛けてきているのだろう。背後では、空港内と想像させるアナウンスが聞こえていた。 「どうしたんですか、羽柴さん。出発、もうすぐなんでしょう?」 『うん。まぁまだ少し時間があるんだがね』  杉野は羽柴の明るい声を聞きながら、どうして羽柴が日本を発つ前に自分に電話をよこしてきたのか全く分からなかった。 『君、今忙しいのかい?』 「いえ・・・それほどでも・・・。あ、梶山はそっちにいるんですか」 『いるよ、もちろん。俺が電話を終えるのを待ってる。── ハハハ。何だかちょっと不機嫌そうだ』  当たり前のように羽柴がそう言う。  杉野は全神経を耳に集めて、隼人の声が聞こえるかどうか耳を澄ませたが、少し離れたところにいるのか、声はまったく聞こえてこなかった。 「それで・・・何かご用ですか? こちらに忘れ物でも?」  努めて平静を装ったが、自分でも上手くできているかまったくもって自信がなかった。  相手はしばらく答えを返さなかったが、やがて少し聞き取りにくいような低い声でこう言ってきた。 『 ── 忘れ物をしているのは、君の方じゃないか』 「え?」  思わず杉野は訊き返す。  受話器の向こうの羽柴は、益々意味深な声色で先を続けた。 『君がウカウカしているうちに、俺がアメリカまでかっさらっちまうぞ。君はそれでもいいんだな?』  ドキリとした。何も声が出なかった。 『こんなことであっさり諦めるような気持ちなら、当然隼人を君に任せるなんてことはできない。俺にとっても、アイツは大切なヤツなんだ。チケットはもう買ってある・・・』 「そ、そんな・・・」 『出発まで後一時間半もないぞ。── さぁ、君はどうする?』  ガシャリ。  唐突に電話は切れた。  杉野はマジマジと受話器を見つめた。 「どうした杉野? 羽柴さん、忘れ物でもしたのか?」  窪内が声を掛けてくる。  杉野は窪内に答えることなく、視線を周囲に彷徨わせた。 「おい、杉野、何だよお前。なんの電話だったんだ?」  再度窪内に言われ、杉野はやっと窪内を見た。 「 ── 電話の内容は・・・・」  オマエハ ハヤトガ ホシクハナイノカ?  頭の中で、もう一人の自分の声が響く。  ハヤトヲ アノヒトニ ウバワレテモ イイノカ? 「・・・嫌だ」  杉野はそう呟くと、弾かれたようにスタッフルームを飛び出した。 「おい! 杉野!!」  窪内が廊下に顔を出した時には、杉野の背中はもう廊下の向こうへと消えていた。  「どこに電話してたんだよ」  唐突に放り出されて待たされる格好になった隼人は、口を尖らせて羽柴を迎えた。 「ごめん、ごめん。コーヒーとケーキ奢るから」 「別に俺、甘いもの好きってわけじゃないけど」 「俺が飲みたいの、コーヒー」  相変わらず憎めない笑顔で隼人の追求を交わした羽柴は、隼人の腕を掴んでシアトル系のコーヒーショップに入る。  カウンターで注文をしてコーヒーを受け取るまで、羽柴は大きな欠伸を何度も噛み殺している。 「やだなぁ・・・。その欠伸に、充血した目。寝不足なのがアリアリ分かるよ。一体どこで遊んできたんだか」  隼人は顔を顰めながら、胡散臭そうに羽柴を見る。  羽柴は小さいカップに入った真っ黒いコーヒーを受け取ると、そそくさとガラス窓沿いのカウンター席に移動する。隼人もホイップがのった大きな紙コップを持って隣に腰掛ける。  ガラス窓の向こうには階下の大きな出入口が見え、平日だというのに多くの人の出入りがあった。  ふと警備員風の男達の動きが騒がしくなって、沢山の人だかりがうわっと増える。  どうやら芸能人が空港に入ってきたのだろう。  キャーキャーという黄色い悲鳴が響き渡って、辺りは騒然となる。 「ああ、道理で人が多いはずだ。誰だろう・・・」  東京で芸能人を見るなんてことは結構あることで、余程の人間でない限り、隼人も驚きはしない。 「ショーン・クーパーだろ」  横でさらりと羽柴がそう言って、隼人は露骨に驚いた。 「え?! あんたもショーン・クーパー知ってんの?!」  隼人は羽柴がオールドジャズ一辺倒なことを知っていたので、正直羽柴が今最も注目を集めているロックスターの名を口にしたことが不思議でならなかった。 「知ってちゃ悪いか」  羽柴は、下を通り過ぎる赤毛の青年を眺めたまま、ぼんやりと答える。  一方隼人は、窓ガラスにビッタリと張り付いて、下を覗き込んだ。  そこら辺の芸能人なら大したことはないが、ショーン・クーパーなら別だ。  隼人はクーパーが『バルーン』というロックバンドのギタリストだった頃からの熱狂的ファンで、突然のバンド脱退後すっかり音沙汰がなくなってしまったことがとても気になっていた。  クーパーの19歳とは思えない程成熟したギターテクニックはもちろんのこと、彼のキュートな赤毛と茜色の瞳も気に入っている。  彼はミュージシャンにしておくには惜しいほど、とろけそうに甘い容姿をしていた。  バンド脱退直前、彼がエイズのチャリティーライブで一度だけ歌声を披露したのを聴いたことがあるが、辛口のロック通の隼人でさえ目を剥くほど素晴らしかった。一説では、バルーンのヴォーカル、イアン・バカランより余りにも素晴らしい歌声だったことが一方的にバンドを首になった原因ではないかと、ファンの間ではもっぱら定説になりつつある。 「え~、まさか日本に来てたなんて・・・。不覚だ~。最近メチャメチャ忙しくて、音楽情報チェックするの忘れてた・・・」  隼人はそう愚痴りながら、素早く考えを巡らせた。  アメリカではイアンの圧力が強すぎて、そのまま引退に追い込まれているという噂のクーパーが、日本の大手レコード会社と契約を交わすのではないかという推測がされていたが、今の時期に来日しているのであれば、その可能性は高い。ひょっとして、いよいよソロデビューができる可能性が見えてきたということか。  いずれにしても、生でこうして見ることができるなんて、奇跡以外の何物でもない。 「あ~~~、ショーンの隣で一眼レフぶら下げてるブロンド、彼女かなぁ・・・」  ブツブツと隼人は呟く。  窓ガラスに張り付いている隼人の異様な様が目に付いたのだろうか。  近頃売上げが低迷しつつあるロックミュージック界の若き救世主とまで前評判がついているミュージシャンが、ふと隼人の方を見上げた。 「ギャギャ!!」  隼人が感嘆の声を上げる。  あのショーン・クーパーが、ニッコリ微笑んで自分の方に軽く手を振ってくれたからだ。  それは余りにも一瞬の出来事だった。  熱風ご一行様が過ぎ去った後、隼人はぼぅっとしてストンと椅子に腰掛けた。  隣では羽柴が呆れ顔で、隼人が倒しそうになったコーヒーを手で避けている。 「ああ・・・折角ショーンが手を振ってくれたのに・・・俺ったら・・・」  隼人はボソボソとお経のように唱える。 「ガラスに張り付いて、きっと間抜けな顔してたに違いない~~~~~!!!」  悔やんでも悔やみきれないといった風の隼人に、「どんな顔してたって、別にいいじゃないか」と羽柴が顔を顰める。 「だってだって、意外にジャパニーズ男子好みで、恋が芽生えるかもしれないじゃん・・・」  羽柴がハハハと笑った。 「お前、杉野君っていう人がいながら早くもそれか? 彼、悲しむぞ」 「悲しむって・・・。あっちが俺のこと好きかどうか分からないじゃん」 「好きなんだよ」 「・・・は?」 「好きなんだよ。バカだなぁ」  苛立つように羽柴は煙草を銜えると、あ、そう言えばここ禁煙だったね、と煙草をしまいかける。その手を隼人がギュッと握った。煙草がパキリと折れ、羽柴が再度「あ」と声を上げる。 「ちょっと、隼人、煙草・・・」 「煙草なんてどうでもいいよ! す、好きって、好きってどういうことだよ、おい!」 「言った通りだよ。杉野君は、お前のことが好きなの」 「どうして知ってるんだよ」 「本人から聞いたんだよ」  羽柴はそう言ってニヤニヤと笑う。  隼人は口をぽっかりと開けたまま、きょろきょろと周囲を見回した。  羽柴は、落ち着かない様子の隼人に紙コップを持たせて、溜息をついた。 「だからお前も、自信を持ってきちんと彼に想いを伝えろよ。多分、昨日のお前の告白、相手に全然伝わってないぞ」  それは恐らく羽柴の言う通りだろう。  昨日の杉野は、明らかに様子がおかしかった。  同性の隼人に告白されて動揺しているというよりは、魂がここにあらずといった感じで、隼人の告白など気にしちゃいない様子だったからだ。  ── けれど、よく考えてみると・・・・。  隼人はぬるくなったコーヒーを啜りながら、思いを巡らせた。  ── どうしてアイツは昨日、突然俺に好きな人がいるかって訊いてきたんだろう・・・。  杉野があのホスピスに来て5ヶ月。  その間、そういった話は全くしてこなかった。お互いに。  なのに昨日の質問はあまりに唐突で・・・。 「・・・あ・・・」  隼人は右手で口を覆った。  ひょっとして杉野は、誤解したのかもしれない。  隼人の答えが曖昧だったので、隼人が好きな相手が杉野であると気付かなかったのかもしれない・・・。 「 ── どうしよう、俺・・・」 「大丈夫だって」  羽柴が、優しくそう言う。  隼人が羽柴を見ると、羽柴の変わらぬ優しい微笑みがあった。 「チャンスは幾らだってある。気付くのが遅すぎたなんてことはないさ。気付いた時が、その時なんだから」  それを聞いて、なんだかほっとする。  隼人の身体の力がすっと抜けていった。  自然と微笑みが零れる。  それを見た羽柴が、くしゃくしゃと隼人の髪を掻き乱した。  あれ? と隼人は気が付く。 「旦那、ペンダントと指輪、忘れた?」  左手薬指に指輪がないことに加えて、いつも見えているはずの金の鎖がTシャツの襟元から覗いていないことに気が付いて、隼人はそう言った。  羽柴はテレくさそうに鼻を指で擦ると、「うん」と返事した。 「今朝、お骨、返してきた」  隼人の心中を探るような表情で、羽柴は言う。  内心、確かに複雑なものを感じた隼人だったが、不思議と嫌な気持ちではなかった。寧ろ何だか、くすぐったいような。  隼人は穏やかな笑顔を浮かべ、「そうかぁ」と返事を返した。 「・・・旦那、俺のこと忘れないでね」  羽柴が目を見開いて、すぐに顔をくしゃくしゃに歪めた。 「忘れるなんてことがあるか、バカ。お前のことだって、もちろん真一のことだって。お前には今まで通り、3日おきに嫌がらせの電話をしてやる」  羽柴の表情は笑顔だったが、それは限りなく泣き顔に近かった。  逆に隼人は、ハハハと笑い声を上げる。  そうして二人で一頻り笑いあった。 「ああ、やっぱり、今回日本に帰ってきて正解だった。会えてよかったと思う。心の底から」  羽柴が大きく背伸びをする。  本当に、のびのびと。 「隼人のお陰で、本当に大切なものが何か見い出すことができたし、また真一に会えた気がした。── ありがとう」  羽柴が、右手をすっと差し出す。 「何言ってんの、今更。・・・こっちこそ、ありがとうだよ」  隼人も、羽柴の大きな手をそっと握り返したのだった。
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