act.01

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act.01

 本当は、「いかないで」と言いたかったんだ。  それが無様だろうが、何だろうが。  それこそ、恥も外聞も忘れて、その痩せた足に縋り付いて、声が枯れるまで泣き叫びたかった。  でも、ボクはそれをしなかった。  いや、できなかったんだ。  きっとそれは、あの人がそうさせるだけの隙間を、ボクに与えなかったからなんだろう。  白く輝く柔和な笑顔が、これから旅立とうとする世界があながち悪いところではなさそうだと感じさせる。  この人が行くところなんだ、きっと素晴らしい世界に決まってると自分に言い聞かせて。  ああ。  『満足して迎える死』のなんと美しいことか。  「だから、そういうところがムカツクんだよ!」 「そういうところって、どういうところだ」 「だから、その、なんつーか、その偽善者チックな面がさ!」 「悪かったな。これは生まれつきなんだ、直せったって、直るものじゃない。といっても、直すつもりはさらさらないけどな」 「~~~~~~! ムカツク~~~~~~~~! 大体さぁ!」  スタッフルームの片隅にある休憩室。革張りの大きなソファーの前が、いつもの彼らの『指定席』だ。スタッフルームでのバトルは、大抵そこで行われる。 「また始まったよ・・・」  この病院の専任医師・窪内が、ホスピス・コーディネーターの井上女史と顔を見合わせる。 「まったく、懲りないわよねぇ、あの二人」  コーヒーを啜りながらそう呟く井上は、「くわばらくわばら」と呟きながらスタッフルームを出て行った。入れ違いに入ってきた婦長が、早速問題の二人の怒鳴り声を聞きつける。 「ごめんね、大人になりきってなくて」  自分のデスクに腰を下ろしている窪内が顔を顰めて婦長を見上げると、婦長はまったく動じない様子でにっこり微笑んだ。 「若いんですもの。じゃれあっているだけですよ、あれは。・・・はい、これ、頼まれていた清水さんのカルテです」  あ、どうもと窪内が頭を下げてカルテを受け取る。 「おい! 杉野! いつまで隼人とじゃれあってるつもりだ! 清水さんのカルテ来たぞ!」  窪内がそう大声を上げると、若者二人はピタリと口を閉ざして窪内を見た。 「見ないのか~」  カルテをヒラヒラさせる窪内に、杉野が不機嫌そうな表情をする。 「だ、誰もじゃれあってなんかいませんよ」 「そーだよ! 誰がこんな奴と!」  若者二人は再度お互いの顔を見てから、ソッポを向く。その様子に、婦長がクスクスと笑いながらスタッフルームを出て行った。  口を尖らせたままの梶山隼人がスタッフルームを出て行くのを横目で見ながら、杉野政宗は窪内の手元にあるカルテを覗き込んだ。 「・・・ああ、大分痛みが酷くなってきているんですね。モルヒネの長期投与で耐性が生じてる・・・」 「鎮痛効果が薄れてきているんだね」 「でも、これ以上投与量を増やすと呼吸不全や全身衰弱が進んで・・・」  自分でそう言っておいて杉野は少し考えた。従来の医師なら、患者の病巣を取り除くのが最優先で、痛み緩和処置は二の次だ。普通、病院というのは、病気の治療最優先で物事が判断される。杉野が以前いた大学病院の現場も例外ではない。  だが、ここは違う。  ここは、ホスピスだ。  この病院では、身体を救うことよりも、その患者の心や生き方そのものを救うための努力が日々行われている。ここではいかに回復させるかではなく、いかに生きてもらうのかが現場のメインテーマとされているのである。  ── それを十分わかっていてここに研修に来たのに、自分はいまでも回復医療を基準に物事を考えてしまう・・・。 「・・・すみません・・・」  思わず杉野の口から、そんな言葉が零れ出た。  窪内が肩を叩く。 「何も謝ることはないさ。つい最近まで、人の命を救う現場にいたんだ。そう考えて当然さ。ご家族の方と相談して、清水さんのモルヒネ投薬量を少し増やそう。それで様子を見て、なおも今のような状態なら、別の手を考えないといけないね」 「はい」 「杉野君、悪いけど平野さんに病状を報告してくれないかな。それから、受付の岸谷さんに清水さんのご主人と至急話がしたいから連絡とってってお願いしてきて」 「わかりました」  杉野はスタッフルームを出た。  季節は4月。  ぽっかりとした春の日差しが、クリーム色の廊下を穏やかに照らしている。  中庭を四方から囲む形で建てられているこの病院は、広い中庭に向かって大きく取られた窓のお陰で、どこにいても明るく優しげな光が差し込むようになっている。若葉が芽吹いたポプラの木々が生き生きと新しい枝を伸ばしていた。  杉野がこのホスピスに通い始めて5ヵ月が経っていた。それまでは、医科大学附属の総合病院に勤めていた。もちろん、今も籍はそこにある。この病院には、あくまで研修として通わせてもらっているのだ。一年間という期限付きである。  大学病院の医師が、このような形で研修を行うというのは大変珍しいことだったが、これは医科大学病院の救命救急室室長・笹岡の計らいで実現した。  ある患者の死に関わって打ちひしがれ、医師生命の危機を迎えていた杉野を何とか救おうとする笹岡の意志がそこにあった。  杉野は、新人ながらも非常に優秀な医師だった。医大の同期の中でもその出来は飛びぬけていて、卒業後も病院に残るよう引き抜いたのは笹岡だった。  総合病院の救命救急は、花形である。しかも、その総合病院は、都心に近い立地条件でありながら、ドクターヘリや災害対応チーム等の導入にも力を入れてきた最先端の病院であった。そんな精鋭が集まる現場にあって、そこで3ヶ月間研修をしていた杉野は、常勤の医師とも劣らない素晴らしい働きを見せていた。・・・あの事件に遭遇するまでは。  あの日。  白い服を着た幾人もの背中が、大きく開かれたドアに向って走って行った。  ドアからは、頭や口、鼻から血を流している壮年の男性が、ストレッチャーに乗せられて運び込まれてくる。  ストレッチャーに一番最初に駆け寄った若い研修医が、男性の痛ましい姿を見て叫び声を上げた。 「新谷さん! どうして?!」 「どけ! 杉野!!」  先輩の医師に身体を押され、若い研修医は壁に激突する。それでも若者は、すぐに立ち上がり、ストレッチャーを追いかけた。  救命救急の処置室にストレッチャーが運び込まれる。 「呼吸、脈拍ともに微弱!!」 「おい! CTの用意をしろ! 急げ!!」 「頭蓋骨はもちろんだが、内臓もやられてるな・・・・」 「何しろ、七階からですからね・・・」 「新谷さん!!」  研修医が、患者の冷たくなりかけた足に取りすがった。 「どうして、どうして自殺なんか!! どうして!!」 「おい! 誰か杉野を外に出せ!! おい!!」  研修医は若い医師に後ろから羽交い絞めにされ、部屋の外に引きずり出される。しかし研修医もドアの縁に手をかけ、必死に抵抗した。  鍛えられた腕に筋が浮き上がる。  研修医は、先輩医師の腕を振り切り、再び中に駆け込んだ。 「杉野! お前が側にいたって、何もできないんだぞ!!」  そんなことは分かってる。分かってるけど、でも。 「新谷さん!!」  研修医がベッドに駆け寄った瞬間。  ピーという耳障りな音が、室内に響いた。 「・・・新谷さん・・・。新谷さん! 何でなんだ! あんた、俺に笑って約束してくれたじゃないか! どうして?! どうして!!」  悲鳴じみた叫び声と共に、ピーという機械音はなおも鳴り響く・・・。  自ら命を絶ったその患者・・・新谷晴夫は、杉野が研修中に一番最初に触れあった患者だった。  ガンを患っていた彼は生きるための治療を求め、苦しく辛い抗ガン剤治療を続ける最中、杉野と知り合った。  杉野と新谷は急速に仲良くなり、杉野は研修時間外に時間を見つけては彼の病室を訪れていた。  「どんなに辛くても頑張るよ。俺にはまだ中学も卒業していない息子がいるんだ」と笑顔で杉野と約束をしたその新谷が、先の見えない延命治療に根を上げて投身自殺を図った後、杉野は自分の生き方を見失った。  自分がしていることに何の意味があるのだろうと、自問自答した。  生気を失った杉野の前を、周囲は気付かぬ振りをして行き過ぎて行った。唯一、救命救急室の室長である笹岡以外は。  ── 杉野の才能を、このまま失うのは惜しい。  笹岡が、学生時代からの友人でホスピスの院長をしていた日下部に杉野を託したのは、苦肉の策だった。  この研修が、果たして杉野にどのような影響を与えるのか。場合によっては、完全に杉野の医師としての未来を封じてしまうかもしれない・・・。  型破りなこの研修の結果を怪しむ視線が多い中、ホスピスで5ヶ月目を迎えた杉野は、今着実に医師としての生気を取り戻しつつあった。終末医療の現場を経験したことが、彼自身の医療に対する考え方を再びきちんと見直す良い機会になったらしい。  だが笹岡は、彼に最も影響を与えたのが、ついさっきまで彼と言い争いをしていた若者であることを知る由もなかった。  ── アイツの顔を見ると、ついつい喧嘩になってしまう。本当はそんなつもりさらさらない筈なのに、不思議だ・・・。  隼人は、院内で唯一の喫煙場所である二階のバルコニーに出て、今日一本目の煙草を口に銜えた。  あの前途有望な外科医と言い争いをした後は、必ず煙草が吸いたくなる。  身体の奥底から沸き上がってくる苛立ちを抑えるためだ。  病気を抱える自分の身体に悪いことは十二分に分かっていたが、この苛立ちを無理矢理抑え込む方がよっぽどよくないからと、自分に言い訳をしている。  苛立ちは、何も杉野に向けられたものではない。  どちらかと言えば、自分に向けられているのかもしれない。  隼人は、やや焦り気味に煙草に火を点け、しかしゆっくりと煙を吐き出した。  穏やかな青空に、ゆらりと柔らかな煙が広がっていく。その自由でのびのびした様は、見ていて心地よかった。  人には、「思ったことをストレートに口にできるのだから、ストレスなどないだろう」とよく言われる。  確かに自分は思ったことを歯に衣着せず言うから、そう取られても仕方がないだろう。  けれど、それができるからって、ストレスがないだなんてどうして言えるのだろう・・・。  人間、自分がわざと目を背けていることをズバリ言われると、誰しもが否定的な感情を覚えるものだ。それがその人のためだと分かって言っても、結局は攻撃しているとしか思われない。事実、自分も相手の歯がゆいところを目の当たりにして攻撃してしまっているのかもしれない。  杉野に対しても、そうだった。  人当たりがいいと評判の男。どんなことでも適切にそして完璧に対処できる男。  それのどこに歯がゆさを感じてしまうのかは定かではないが、彼の『完璧さ』をどこかで壊したいと思っている自分がいることを隼人は感じている。  完璧を崩すことが果たしていいのかどうかも分からないまま。  こんな苛立ちを感じるのは、随分と久しぶりだ。  隼人の髪の毛がまだ白く脱色されていた頃は、やたらめったらその苛立ちを感じまくって爆発させていた。  それをゆっくりと収めてくれたのは、指先の綺麗なあの仕立屋だった。  彼がこの世からサヨナラしてしばらく経つが、この苛立ちは久しぶりに感じるものだった。  こんなにレベルの高くて深い苛立ちを感じるのは。  ── どうして・・・・。 「あ~~~~! クソッ!」  一瞬ちらりと自分の感情の裏に、甘くズキリとする小さな衝撃を感じて、隼人は両手で空気を掻き乱した。まるで、自分の気持ちを覆い隠すように。  そして隼人は気が付いた。  こんなに苛立っているのは、自分の弱さを見て、自分を『歯がゆく』思っているからなんだと。  ── 何だか、皮肉だよな・・・。  隼人は、その場にしゃがみ込んだ。  ろくに吸っていない煙草を、吸い殻入れになっているバケツの水の中に放り込んで、ジャージのポケットを探った。  携帯電話の手慣れた触り心地。  ── そう言えば、ここのところ電話がかかってきてないなぁ。あの、『おっさん』から。  そう思った途端、自分が随分そのおっさんのことを頼りにしていることを感じて、隼人はまた唇を噛みしめた。  その日の早朝。  空港は、有名スポーツ選手が国外に出発することを受けて、いつも以上に騒がしかった。  久しぶりの帰国だというのに、男はまず、重たい機材を抱えて駆けずり回る報道の人間達の乱暴な人の流れに出迎えられてしまった。相変わらず母国のミニマムな慌しさを実感させてもらったようで、男は苦笑いする。  男が黒いボストンバックを左肩に引っ掛けた矢先、中年女性のレポーターが勢い余って男の分厚い身体にぶつかってきた。  男の身体は、日本を離れた5年前の時と比べても何ら衰えていない。寧ろ若々しくさえある。男の身体は、突然の衝撃にも怯むことなく、素早い動きで女性レポーターを転倒から庇ってやる芸当さえ見せる。  レポーター特有の良く通る声が派手な悲鳴を上げる。  「大丈夫ですか?」という落ち着いた男の声に女性レポーターが顔を上げると、彼女は思わず言葉を失ってしまった。結婚も離婚も経験済みの40を過ぎた身であるにもかかわらず、その女性レポーターは迂闊にも男の爽やかな笑顔に見惚れてしまったのだ。 「大丈夫ですか?」  返事を返さない女性の腕を支えたまま、男は怪訝そうに再度訊いた。レポーターは慌てた様子で「ごめんなさいね」とようやく声を出した。 「五十嵐さん、なにやってんの!」  遥か先から、大きなカメラを抱えている男の怒鳴り声がする。レポーターは「今行くわよ!」と怒鳴り返して、男に再度謝った。  レポーターは男をやり過ごしながらも、数度男の後ろ姿を顧みた。  ゆったりと歩くその姿は、今日の獲物であるスポーツ選手なんかより数段魅力がある。  女性レポーターのハイエナのような好奇心のアンテナに引っかかっているとは知らず、男は周囲の喧騒とは縁遠いゆったりとした足取りで、空港ロビーの外に出た。  お世辞にもうまいとは言いがたい外の空気を思い切り肺に吸い込んで、男はにっこりと笑い、一言こう呟く。 「ただいま」
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