act.04

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act.04

 ── そうなんだろうか・・・。  杉野の頭の中は、まるで脳味噌が遊園地のコーヒーカップに揺さぶられるような感覚に陥っていた。  もちろん、それから以後の仕事は情けないほど手につかなかった。  いつもきちんとして人に迷惑を掛けない、というのが信条の自分が凡ミスを連発して周囲の者を驚かせたのは、ひとえに羽柴のあの発言のせいだ。  ── 君は、隼人のこと好きなの?  本当に、そうなのだろうか・・・。  二十半ばも超えて、もうとっくにいい年だというのに、その潔癖さ具合が影響してか、こと恋愛に関しては経験が少ない。第一医者を目指す者、余裕がなさ過ぎて、それどころではないのが常だ。  らしくないミスをやらかして一人落ち込む杉野を見て、先輩医師・窪内も見かねたようだ。 「ここにきてやっと杉野も人並みの疲れを見せ始めたか。まぁそこで休んでろ」  窪内に笑われながら、そんなことないですよ・・・と力弱く否定したものの、これ以上動くと患者さんにまで迷惑をかけそうだと大人しく窪内の言う通り、休むことにした。  婦長がスタッフルームの応接テーブルに熱いコーヒーを淹れてくれたので、一人素直にそれを啜りながら、ソファーに身を沈めた。  身体はぐったりとしていたが、頭の中の嵐はなお収まってはいなかった。  いろんな思いが去来しては消えていく。  ── こういう感覚が、『好き』ということになるのだろうか?  ── でも相手は男だし、俺はゲイじゃないし・・・。  ── けれどアイツが他の人間と抱き締め合ったり、恋人に向けるような目線を向けたりするのは、想像するだけでも嫌だ・・・。  ── いや、そうじゃない。俺はそんなこと考えていない。別にアイツが誰と抱き締め合おうと・・・。  ── 第一、もし万が一俺がアイツを好きだと仮定したとしても、結局アイツは俺のことを嫌っているんだから無駄じゃないか。  ── ダメだと分かっていながら、気持ちを吐き出すなんて、そんな格好悪いこと、とてもじゃないけど俺はできんぞ・・・。  そんなことを考えている内に、心臓の辺りがキリキリと痛み出した。 「・・・うぅ・・・」  杉野は胸を押さえて、前屈みに倒れこんだ。 「アンタ、どっか具合でも悪いのか?」  ふいに側で隼人の声がして、杉野は文字通り身体を飛び上がらせて驚いた。  その拍子に紙コップがカタリと転がり、中身がテーブルの上に零れる。 「あ!!」  焦っている内に、杉野の白衣にまでコーヒーが飛び散った。 「ああ、アンタ何してるんだよ!」  隼人の方が手際よく布巾でコーヒーを拭き取っていく。 「す、すまん・・・」  珍しく素直に謝る杉野を、隼人の少し茶色がかった大きな瞳がちらりと捉えた。 「・・・どうしたの? アンタらしくないじゃん。ホントに大丈夫?」  隼人のこんな優しげな声のトーン、初めて聞く。  杉野は数回瞬きを繰り返して、小さく息を吐いた。  ようやく落ちついてくる。 「顔、赤い。風邪でもひいた?」  隼人が杉野の額に向かって手を出してきたが、杉野はさり気なくそれを避けた。 「ちょっと疲れが出ただけだ。大丈夫」  そう言いながら立ち上がった杉野は、既にいつもの冷静な顔つきに戻っていた。  コーヒー色に染まった白衣を溜息混じりの苦笑いを浮かべながら、見下ろす。 「いくらなんでも着替えなきゃダメだよな」  今日の杉野の白衣はジャケットとスラックスタイプのもので、一枚上に羽織るだけのそれとは違い、完全に洋服として着込むタイプだ。  杉野はジャケットを脱ぐと下のTシャツまで染み込んでいるのを発見して、再度溜息をついた。  そのまま何気なしにTシャツも脱ぐ。 「あ、アンタなぁ! パーテーションの向こうにロッカーがあるんだから、ちゃんとそっちで着替えろよ!」  今度は隼人が慌てたような声を上げた。 「あ、ごめん」  あんまり大きな声で怒られたものだから、つい杉野も素直に謝ってパーテーションの向こうに身体を隠した。  自分のロッカーから真新しい白衣を取り出し、それを着込みながら、杉野はハテと首を捻った。  ── 別に男同士なんだし、何を恥ずかしがる必要があるのか。  杉野は、ファスナーを引き上げる前に自分の上半身を見下ろした。  ── 腹は出てないけれど。そんなに見苦しい身体に見えたかな。  杉野は肩を竦めて、腹をさすった。  杉野が着替えを済ませてパーテーションから顔を覗かせると、既に隼人の姿はスタッフルームから消えていた。  隼人は、またもや無性に苛立ちを抱えて、病院の裏庭にある畑へと向かった。  今日の予定では、去年休ませていた畑の土作りの日だった。 「あ、隼人。やっと来たな」  羽柴は今度、畑仕事を手伝っていたようだ。あまり似合わない麦わら帽子を被って、隼人に向かって手を振ってくる。  隼人は口を尖らせたまま羽柴を一瞥して、それを挨拶代わりにすると、羽柴の手から鍬を奪い、猛然と土を掘り起こし始めた。 「・・・何か、隼人、恐い」  羽柴が、若干身体を小さくしながらポツリと言う。  午前中お花見に一緒に出かけた光恵ばぁちゃんが、「また杉野君と喧嘩でもしたかね」と孫を見るような目で隼人を見て言った。  それを聞いて、羽柴はフムと顎に手をやる。 「ちょっと! ここ耕したの誰?!」  隼人が鋭い声を上げる。そこにいる人間全てが羽柴を見た。  隼人が、羽柴をキッと見る。  羽柴は、目を見開いて両手を挙げた。 「耕し方が甘い!! こうやるの、こう!!」  猛然と鍬を振り上げる隼人は、流行のブティックの店員をしていた頃とは別人のように見える。その手つきも腰つきも堂に入っていて、流石羽柴に注意するだけのことはあった。 「ああなると、誰も手をつけられないからねぇ~」  ほのぼのとした声でそう言う光恵ばぁちゃんの声を聞きながら、羽柴は確信していた。  ── やっぱ、こいつがこうなのは俺のせいか。  きっとその裏に、自分が杉野に言ったことが早くも影響を及ぼしているのだと羽柴は思った。  「どうしたんだよ、お前」  中庭のベンチに座り、二人並んで缶ジュースを飲みながら、羽柴はそう切り出した。  興奮状態の隼人が参戦したお陰で、あっという間に今日の予定の農作業を終えてしまい、少し長い休憩となってしまっていた。  今はすっかり落ちついた様子の隼人は、少しバツが悪そうに缶の端っこを前歯で囓っている。 「いつもあんな風に感情を爆発させてるのか?」 「・・・いつもなんかじゃないよ」 「本当か?」  疑わしいものだ・・・と羽柴は溜息をついた。  ポプラの若々しい葉っぱが、心地よい風にサワサワと揺れている。  ふいに羽柴は右肩に重みを感じて、視線を向けた。  隼人が額を押しつけている。 「・・・どうした?」  羽柴が優しく囁きかけると、隼人はグスリと鼻を鳴らした。 「・・・俺・・・、昔とちっとも変わってないかもしれない。自分が一番嫌いだった、チャラ男時代の俺と」 「何で?」 「・・・さっき杉野の裸見て、すげぇうまそうとか思っちゃった」 「何だ、それくらい」 「それだけじゃない。・・・俺がその気になったら、ノンケのコイツでも落とせるかなって・・・思っちゃった」  隼人は顔を起こすと、ハァーと大きく溜息をついて顔を腕でゴシゴシ擦った。 「ああ、俺って、ホント、サイテー・・・」  そう言ってしょげる隼人を見て、羽柴は迂闊にも声を上げて笑ってしまった。隼人がぎょっとして羽柴を見る。 「な! なんだよ!! 人が落ち込んでるってのに!!」 「いや、その、なんだ・・・。お前ら・・・こんなに一日の間で・・・俺のこと笑わせ過ぎ・・・」 「はぁ?!」  隼人が顔を顰める。羽柴は目尻に浮かんだ涙を指で拭いながら、さっき隼人がしたようにハァーと大きく息を吐き出した。 「なんだか、いいなぁ・・・。お前、恋してるんだな。ステキだよ」 「こ、恋って・・・! 恋じゃねぇだろう」 「恋だろう」 「そうかな」 「そうだよ」  またもや隼人は考え込んでしまう。 「・・・恋っていうか・・・ただの肉体の欲求だろう。これは」  隼人は苦々しく呟く。羽柴はそんな隼人を微笑ましそうな目で見つめ、「そうか?」と聞き返す。  隼人は俯いたまま、口を尖らせた。 「もう、そういうのはヤメにしたんだよ。寂しいからって、自分の部屋にどこの誰かも分からないヤツを連れ込んだり、俺の見てくれだけで寄ってくるバカ男相手にすんの。そういうのはよくないって、真一さんが言ってくれたからさ・・・」 「別に杉野君はどこの誰かも分からないヤツじゃないし、バカ男でもないだろ?」 「そうだけど! ・・・だってアイツ、医者じゃん・・・」  羽柴は意味が分からなくなって、眉間に皺を寄せる。  隼人は先を続けた。 「医者は嫌いなの! 真一さんを助けてくれなかったから!」  羽柴はポカンと口を開けた。 「・・・隼人、お前なぁ・・・」 「分かってるよ! 子どもじみたこと言ってるってことは・・・」  隼人はそう言って缶ジュースをがぶ飲みする。 「・・・分かってるんだよ・・・。杉野が悪い医者じゃないってことも・・・」  隼人はギュッと目を瞑って、身体を前後に揺らした。  隼人はあの日、電車の中で見た杉野の涙の意味を、既に知っていた。  あまりにも苛酷な、患者の心を無視した延命治療に従事していた自分が許せずに流した涙。  医者自身の為ではなく、一人の患者の人生の為に流した涙だった。  ── 恋・・・。そう、これは恋かもしれない。あの日の涙の意味を知ったその日から。  隼人は、ふいにポロポロと涙を零した。  杉野に、一瞬でも汚らわしい欲望を向けた自分が許せなかった。  一番嫌いだった頃の自分に戻ったようで、堪らなかった。 「バカだなぁ・・・、泣くヤツがあるか」  羽柴が隼人の頭を抱えて、そっと抱き寄せる。 「俺・・・、昔とちっとも変わってねぇ」  自分を苛める意味でも、隼人は再度そう言った。  羽柴が、ハハハと優しく笑う。心地言い振動が隼人の濡れた頬から伝わってくる。 「いいじゃないか、変わってなくて」  隼人は眉間に皺を寄せて羽柴を見上げた。羽柴は、穏やかな微笑みを浮かべ、隼人を見つめていた。 「お前は昔から本当に優しいヤツだし、俺達をいつも勇気づけてくれたじゃないか。そんないいところを変える必要なんてないだろう?」 「よしてくれよ、お世辞なんて・・・・」 「お世辞もんか」  羽柴が、口を尖らせる。 「恋しい人と結ばれたいって思う心は、人間の正常な感情だと俺は思うぞ」 「そりゃ、そうだけど・・・」 「ん?」  隼人は身体を起こし、また溜息をつく。 「俺は人より簡単にセックスを考えちゃいけない人種なの。そんなこと、旦那が一番分かってるじゃないか。それに、すぐそういうことを考えちまう自分が許せないんだよ。俺だって、ちゃんと順序通りのきちんとした恋愛がしたい。旦那と真一さんがしたみたいにさ」  羽柴が目をパチパチと瞬かせる。 「え? 俺なんて、真一と付き合えるようになって僅か三秒後には真一を抱きたいと思ったぞ」  隼人がぎょっとして羽柴を見る。  しばらくの間が開いて、やがて二人は同時に笑い出した。  隼人には、羽柴のこれ以上にない優しさが嬉しかった。  一時は真一を巡って完全に敵対関係にあった二人なのに、今はこうして笑い合っている。  年齢も仕事も住んでいる環境もまるで違っていたが、無二の親友はと訊かれたら、胸を張って目の前の男の名を言える。  ── ここまで互いに思っていて、全然恋愛関係に発展しないのが不思議だけど。  隼人はまたおかしくなって、更に笑った。  羽柴が「ああ」と笑い疲れて缶ジュースの残りを飲み干し、傍らに空き缶を置く。隼人はふと気が付いた。 「そういえばこのベンチ、真一さんがよく座ってたベンチだ」 「え?」  羽柴が、二人の座っているベンチを再度しげしげと眺める。  隼人は柔らかい微笑みを浮かべながら、「今旦那が座ってる方が、いつも真一さんが座ってたところ」と告げた。 「そうかぁ・・・」  羽柴は感嘆の声を上げながら、いとおしそうに自分が座る脇の板を数回撫でた。 「墓参りは、したの?」  ん?と羽柴が顔を上げる。 「一応ね。帰ってきた初日にお母さんのところに寄って、一緒に行った。明日向こうに帰る前に、もう一度行こうと思ってる」 「そっか」 「ああ。今年の命日にはどうしても都合がつかなくて帰ってこられなかったからな」 「そうだね・・・」  真一の命日は奇しくも真一の誕生日の丁度一ヶ月前で、一月初旬のまだ寒い時期だった。  ごめん、今年の命日帰れなかった・・・と自宅の電話に羽柴から留守電が入ってたのは、いつのことだったっけ。 「・・・なぁ、隼人」  ふいに神妙な声で羽柴が隼人に声をかける。 「何?」  隼人が羽柴を見ると、羽柴はポプラ並木に目をやったまま、「分骨してもらった分を、もうそろそろ返そうかと思ってるんだ」と呟いた。  実のところ、真一の死後、真一の遺骨を持って渡米した羽柴だったが、一年目の命日に日本の墓にお骨は収めていた。その際、真一の母にお願いをして、一部分骨してもらっていたのだった。  分骨してもらった小さな骨の欠片と遺灰は今、羽柴が首からぶら下げているペンダントのカプセル型ペンダントトップに入っている。 「・・・ええ・・・。そうなの?」  まさか羽柴がそんなことを言い出すとは思わなかったので、隼人は正直に驚いて見せた。  しかし羽柴もまだ悩んでいるようで、言ったなりに後悔したといった表情を浮かべた。  左手薬指に二重に填められたシンプルな指輪を、羽柴の指先が落ち着かないように何度も何度も擦る。 「自分でも、まだ分からないんだ・・・。どうすべきなのか」 「悩んでるって、そのことだったの」  ── 昨夜、繁華街で苦々しい表情を浮かべていた理由はこれだったのか。  隼人は妙に納得する。 「ひょっとして・・・、旦那の方こそ、好きな人できた?」  隼人はそっと訊いてみる。次に出てくる羽柴の答えを何となく恐く感じながら。  羽柴には今度こそずっと一緒にいれるような新しい恋人を見つけて欲しいと思う反面、真一から気持ちを放さないで欲しいと思う自分もいる。なんだか、羽柴が遠く離れていってしまうようで。  羽柴は、しばらくの間、ポプラの葉の間から見える青空を見つめていたが、やがてポツリと呟いた。 「・・・人間、自分のことになると、途端に何も見えなくなっちまうんだよな」
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