act.05

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act.05

 ── たとえ羽柴が隼人と付き合っていなくても、隼人が羽柴を好きである可能性は、多分、ある。  中庭を望む二階の渡り廊下の窓に、杉野はコツンと額をつけた。  中庭のベンチで、羽柴の肩に頭を預けたり、杉野の前では決して見せない涙を見せたり。  そこにいる隼人は、杉野のまるで知らない・・・言葉を探してみれば、それは『かわいい』隼人だった。  二人の間に自分のような他人が決して入り込めない雰囲気があった。 「い、いてて・・・」  今度はキリキリと胃袋が痛む。  杉野は、大きく息を吐き出した。 「俺・・・医者として失格・・・」  そう呟いてみて、益々自己嫌悪に陥った。  こんなに無様な自分が許せない。  見るまいとずっと避けてきた自分の感情が、もう我慢できないと吹き出してくる。  決して痛みだけではない、じんわりとした感覚。  両腕がビリビリと痺れてくるような、腰が砕け落ちるような。  ── あ~・・・。こんなのは・・・辛い。  今まで杉野が対処したことのない感情。  他の人から好きになられることはあっても、自分から人を好きになることは今までなかったかもしれない。  ── ということは、やっぱり惚れてるのか、俺は。  杉野は窓ガラスに背を向け、ズルズルとその場に蹲った。  相手は男で、しかも顔を合わすと喧嘩ばかりで。  世間体をこんなにまで気にしてきた杉野が、まさかそんな相手に参ってしまうとは、自分が一番驚いた。  杉野は、今時の若者にしては珍しく、「付き合うなら結婚まで」というポリシーを持っていた。遊びの恋愛など、想像すらできないタイプの男だった。  今回は相手が男だから結婚はできないとしても、好きになるということは、少なくとも一生側にいたいし、いて欲しいと思ったわけだ。  ふいにHIVウィルスのことが頭を過ぎった。  今まで隼人のことを考える上で、ウィルスの存在を意識したことはなかった。  カクテル療法がきっちり効果を上げている隼人は、いまだエイズを発症する様子は見られない。  けれどこの先、運命の日がやってこないとは限らない。  その時、自分は勇気を持って彼の傍にいれるのだろうか。  そんな彼とセックスできる自信はあるのか?  二重三重の予防をしておけば、感染率がかなり下がることは杉野だって知っている。  けれど、危険がまったくなくなるわけではない。  ── ・・・・。  ふいに猛烈な悲しみが杉野を襲って、杉野は立てた膝の間に頭を埋めた。  その悲しみは、自分の命の危険を感じたためでなく、ましてや隼人の死を連想したからでもなく、隼人を一瞬でもそういう目で見てしまった自分が情けなくて堪らなくなったからだ。  まるで隼人を差別してしまったような気がして、涙が込み上げてきた。  杉野は、ぐっと歯を食いしばる。  いろんなことを考えても、やっぱり隼人のことが好きだと感じている。  今、中庭のベンチで隼人の隣に座っているのが自分であればいいのに、とさえ願う自分がいる。 「・・・バカだな・・・俺」  ── そんなことをいろいろ考えたって、そもそもアイツが俺のこと、好きになってくれるはずがないのに。  杉野はふいに天を仰いで、再びふぅと大きく息を吐き出した。  夕方のスタッフミーティングは、随分いつもと違う雰囲気だった。  それは羽柴が混ざっているからだろうと杉野は思った。  いつも明るい雰囲気であるには違いないのだが、羽柴が混じるとまるで太陽がそこにいるようだ。  大切な引継事項や報告が終わった後も、何となく皆その場に止まって談笑が始まった。  隼人が羽柴の冗談に、大口を開けて笑っている。  目尻が甘く垂れて、細い顎が余計尖って見える。  黙っている時でも随分甘いマスクで、それでも年々精悍さが増していると周囲が噂している隼人の顔だが、そうやって子どもみたいに笑っていると、まるでチョコレートのように可愛らしい顔つきになる。年齢的にはもう二十代半ばのはすだったが。  まだ笑い続けている隼人の口の中が白っぽく見えて、杉野は「ああ、少し貧血気味かもしれんなぁ・・・」と思った。  ふと隼人と目があって、ドキリとする。  杉野は慌てて・・・といっても努めてさり気なく、視線を外した。  いつの間にか自分が隼人ばかり目で追っていることに気が付いて、杉野は内心穏やかではなかった。  他の人と話すフリをしながら、視界の隅では隼人を目で捉えている。  杉野は気が付いた。  ── どうやら俺は、好きな相手になるほど、そういう感情を気付かれないように相手を避けてしまう傾向があるらしい・・・。  まったく、何をやってるんだと我ながら情けなくなるが、まともに隼人の顔が見られなかった。  それでも、相手が自分を見ているのが分かる。  焦点がぼやけているので隼人が一体どういう表情をしているのかは分からなかったが、恐らく自分を見ていた杉野のことを怪訝に思ったのだろう。  ── まいったな・・・。  杉野は堪らなくなって席を立った。  スタッフルームを出ると、ふいに背後から声を掛けられた。 「ねぇ」  隼人だった。  内心ドキリとしながらも、顔は普段と変わらない顔つきで杉野は振り返る。  程良く白熱灯の光が落とされた薄暗い廊下で、二人きり向き合う形になってしまった。 「どうしたの?」  そう訊かれ、「何が?」と返した。 「アンタ、俺のこと見てただろ? 何か、用事があるのかと思って」  杉野は瞬時に考えを巡らせて、すぐ先の薬局を指さした。 「いや、お前、少し貧血気味じゃないか? 鉄分のサプリメントを取ってこようと思って」 「え? そんな風に見える?」 「ああ。ちょっと口、開けてみろ」  杉野が顎を捉えると、杉野より身長が低い隼人は、少し上向き加減で素直に口を開けた。  杉野は、まさしく医師の顔つきをして、口の中を覗き込む。 「舌をちょっと上に捲ってみて。・・・うん・・・。やっぱり舌の裏が白いよ。慢性の弱貧血症だと思う」 「自分はそんなつもりないけどなぁ・・・。そりゃ立ちくらみぐらいはするけど」  顎を捉えた杉野の手から逃れることもなく、隼人が呟く。  思わく隼人に触れている手が心地よくて、杉野もその体勢のまま、会話を続けた。 「その立ちくらみが案外曲者なんだよ。お前は人より身体のこと気を付けなきゃいけないんだから、あんまり無茶せずに疲れるようなことは控えろ。看護師長さんに聞いたぞ。裏の畑、殆どお前一人で耕しちまったって」  隼人がテレたように小さく笑みを浮かべた。 「はいはい、ドクターさん」  杉野はその声のトーンととろけそうな微笑みに再びドキリとして、顎の手を外した。  薬局に向かう杉野の後を、隼人も大人しくついてくる。  薬剤が詰め込まれた壁一面の引き出しの中から、杉野はタブレット形式になったサプリメントを数錠取り出すと、薬局の奥の冷蔵庫から白湯が入ってるボトルを取り、グラスに注いだ。  カウンターに腰を凭れさせている隼人にそれらを手渡すと、隼人は指で鼻の下を擦る。 「なんか、アンタにこうして面倒みてもらうのって、案外気持ちいいかも」 「 ── なにバカなこと言ってる」  サプリメントの容器の後かたづけをしながら、杉野は努めてさり気なく言った。  振り返ると、隼人がゴクゴクとグラスの水を一気に飲み干している。  その度に動く喉仏に熱を感じて、杉野はゴホンと咳払いをした。 「アンタの方こそ、風邪なんじゃないの? やっぱ」  隼人は、昼間のことも考えて、そう言ったのだろう。  杉野は慌てて否定した。 「いや、そんなんじゃないから」 「でも咳してるし」 「大丈夫。俺は医者だぞ」  隼人はふいに口を噤んで、そりゃそうだ・・・と呟いた。  手持ちぶさたに空いたグラスをゴロゴロと転がしている隼人に、杉野は思いきって訊いた。 「 ── お前さ・・・。今、好きな人いるんだろ?」  隼人は驚いた顔つきで杉野を見た。  そしてしばらく食い入るように杉野の顔を見つめて、「うん、そうかもね」と答えた。 「やっとゆっくり好きになれる人を見つけられたかも」  隼人はふいに杉野から顔を外し、遠くを見るような目で、宙を見つめた。  杉野は、その視線に何かの意味を感じ、思わずこう口に出していた。 「・・・その・・・。須賀さんって人以上に?」 「知ってんの?」  再び隼人が驚いた顔をして、杉野を見た。  杉野はバツが悪そうに頷いた。 「窪内さんから訊いた。羽柴さんが急にボランティアとして参加する意味が今ひとつ飲み込めなくて。でもほんの触りしか聞いてないけど」 「どこまで?」 「エイズを発症してここに入院していた須賀さんを、羽柴さんの代わりに梶山がずっと看病してたことと、羽柴さんの恋人だった須賀さんに梶山が惚れてたってことぐらい」  隼人はう~んと唸って、腕組みをする。 「・・・そう言われればそうなんだけど・・・ちょっと違うんだよなぁ・・・」 「違う?」 「惚れてたっていうか・・・遠慮してたって言った方が近いかな・・・。なんとなくだけど」 「遠慮してた?」 「うん」  隼人は、身体を起こしてグラスを流しに持っていくと、それを洗剤で念入りに洗い始めた。 「確かに俺、真一さんには惚れてたけど、羽柴のオッサンのことも好きだったしさ。俺は一歩引いて、それでも会うことができない二人の寂しさを何とか埋めることができればって、いつも思ってた。真一さんは、自分の最後を羽柴のオッサンに見せたくなかったんだ。ほら、この病気って、最後結構凄いことになるじゃん」  隼人は長いこと洗っていたグラスを、やっと洗い終わって食器カゴに置いた。  隼人が『この』と病気を指したことが、杉野の胸にズキリと刺さった。  自分の中にも、その病素があると自覚した上での隼人の台詞だった。  手がシワシワになるまで執拗にグラスを洗うのも、自分の唾液がついたものをそのままで置いておくのが我慢できないからだ。  例えそのままにしてあったって、生命力の弱いウィルスが生きて誰かを攻撃することはあり得ないのに。 「あの二人はさ、本当に命をかけて愛し合ってたんだ。端で見てて、涙が出そうなくらいにさ。俺も、そんな恋愛がしたいなぁって、ずっと思ってた。なんかさ、もう遠慮するのはやめた方がいいよなって、羽柴さんが言ってくれたからさ・・・」  隼人はそう言いながら、中庭で言った羽柴の声を思い出していた。  『ここは不思議なところだよな・・・。一番“死”に近い場所なのに、この世でもっとも“生”が漲っている・・・。ここにこうしていると、何かに遠慮して、後悔するような生き方をするのが間違いだって気分させられる・・・』  羽柴はそう言って、遠い空を見つめた。 『ここであいつは最後の時を生き抜いたんだなぁ。・・・なんか、真一が「もういいよ」って言ってくれてるような気がするなんて・・・。俺、薄情なのかな?』  そう言う羽柴の目尻には、薄く涙が溜まっていた。  薄情なんかじゃないよ。  全然そうじゃない。  アンタは十分、あの人を愛した。  そして今も大切に想ってくれているじゃないか。  それが例え形を変えたとしても、あの人がそれを責める訳がない。  寧ろそれを温かく見守って、微笑んでいるに決まってる・・・。  ふいに隼人は笑顔を浮かべた。半分ベソをかきながら。  自分も旦那も、真一が最後を迎えたその場所で新たなスタートを切り出そうとしているのがまるで真一の後押しのような気がしていた。  「アンタは絶対に薄情なんかじゃない。俺には、真一さんがそう言ってるのが聞こえる」と言えた自分が嬉しかった。そしてそれに頷いて応える羽柴の表情もおだやかで。    一方、複雑な表情を浮かべ黙ってしまった隼人を見て、杉野はこう思っていた。  もう遠慮するのはやめようと言うのは、つまり須賀さんに遠慮するのをやめようってことで、ということは、それは・・・・。  隼人が見ていないことを分かっていた上で、杉野はガックリと肩を落とした。  ── やっぱり隼人は、羽柴さんが好きなんだ。  昼間は羽柴さんだって、隼人と付き合っていないだなんて言っていたけれど、隼人が羽柴さんに告白すれば、きっと羽柴さんだって・・・。  杉野は、中庭で隼人が羽柴の肩に頭を預けていた光景を思い浮かべていた。  しおらしい隼人に優しげな目線を送る羽柴は、正直お似合いだった。  ── ああ、なんてこった。  杉野は一人勝手に失恋して、今隼人がしていたようにカウンターに腰を凭れさせ、両膝に手をついた。  好きだと自覚して、半日もしないうちに失恋するだなんて。  ── つくづく俺は恋愛に関してついていない・・・。いや、臆病過ぎるということか。一生大切に思える相手に出会えて、それをみすみす逃してしまうなんて・・・。 「? アンタ、やっぱ具合悪いんじゃないの?」  隼人が杉野の顔を下から覗き込んでくる。 「・・・そうかもしれん・・・」  杉野はゆらゆらと身体を起こすと、そのまますぅっと廊下に出た。  隼人が杉野を追いかけようと薬局のドアから飛び出ると、出会い頭に日下部院長と鉢合わせした。 「おお、隼人。ここにいたのか! 探したぞ」  腕を掴まれ、隼人は仕方なく立ち止まる。 「何ですか?」  スタッフルームの方に向かって姿を消す杉野の後ろ姿を視界の隅に捉えながら、隼人は早口でそうまくし立てた。  日下部は大らかな性格なので隼人の焦りにも気付くことなく、「いや、お前と羽柴さんを車で駅まで送ってやろうと思って。次の電車逃すと、結構待たないといけないだろう? もう時間ないぞ」と続けた。  隼人はハッとして日下部の腕時計を掴み、ぐいっと覗き込む。  確かに、夕方の電車の時間が迫っている。  駅からは15分おきに電車は出ているものの、隼人が住んでいる街まで直行している訳ではなく、乗り換えのことを考えると確かに次の電車を逃すのは余り賢いとは言えなかった。 「・・・クソッ」  隼人は舌打ちをする。  それを見計らったかのように、羽柴が隼人の荷物を持って廊下の先からバタバタと走ってくる。 「隼人! 荷物これだけか?」  オレンジのデイバッグを渡され、隼人は「うん」と頷いた。  隼人は、後ろ髪を引かれるような思いで病院を後にした。  電車に揺られながら、「晩飯、どこで食う?」と隼人が訊くと、羽柴は「うん?」と首を傾げながら腕時計に目をやった。 「何? 時間なんか気にしちゃって」  隼人がそう訊くと、羽柴は「ちょっと今晩行きたいところがあって」と答えた。昔の同僚とでも飲みに行くのだろうか。「そう。じゃ俺、いつもの定食屋に寄って帰ろうかな」と隼人は呟いて、再び車窓に目を遣った。  カタンカタンと電車が小さく揺れて、やがてキキーとある駅に止まる。  隼人の視界に、以前杉野が勤めていた大学附属病院が入ってくる。 「ねぇ、おっさん・・・」  隼人は呟いた。  再び羽柴が「うん?」と訊いてくる。 「やっぱ俺、アイツのこと、好きかもしんない」 「うん」  羽柴が当たり前だといった具合に、返事を返してくる。 「さっきさ、アイツ、俺の身体のこと心配してくれてさ。意外にっつーか、かなり嬉しかったんだよね、何気に。それに、狭い薬局でさ、グラス洗う時にこう急接近してさ、そういうのも嬉しかったっていうか、心が弾むっていうかさ。アイツに『今好きな人いるんだろ?』って訊かれて、俺、ちゃんとアイツの顔見て『いる』って答えられたよ。── その割にアイツ、無反応だったけど。・・・なんか具合悪そうにしてたから、ちゃんと聞いてなかったのかも」  しばらくの間があって、羽柴が隼人の髪をくしゃくしゃと掻き乱した。  横を見ると、羽柴は上機嫌にニコニコと笑っている。 「もう、バカヅラでそう笑うなよ」  隼人はテレくさくなってつい憎まれ口を叩いたが、羽柴はそんな隼人が可愛く思えるのか、益々笑顔を浮かべて更に隼人の頭を撫でた。  そうしている内に、乗り換えの駅がやってくる。  二人で電車を降りて、階段を上がった。  いつもは階段を上がって左に行くのが本当なのに、なぜか羽柴は右へ足を向ける。 「ちょっと、おっさん、どこ行ってんの」  隼人が振り返って呼び止めると、羽柴は「ああ、そうか」と足を止めた。「俺、こっちだから」と右側のホームを指さす。  隼人はああ、と思い直した。 「そっか。アンタ、同僚と飲みに行くんだったね」  隼人がそう言うと、羽柴は顔を顰めた。 「同僚?」 「 ── 違うの?」  そう訊かれ、羽柴はう~んと瞬きを繰り返した。 「まぁ・・・いっか。じゃ、行くな。あ、今夜帰れないかもしれないから、ちゃんと鍵掛けて寝ろよ」  まるで亭主みたいな言い草に、隼人は口を尖らせる。 「何言ってんの、アンタ。・・・あ、ねぇ! 今夜俺の家で寝ないんだったら、アンタどこで寝るつもりだよ!!」  数歩足を進めた羽柴は、振り返り様「何とかするよ!」と返事をする。 「何とかするって・・・、どこまで行くの?!」 「ん~と・・・渋谷!!」 「渋谷ぁ?!」  およそ羽柴に似合わない街の名が出てきて、隼人は顔を顰める。  羽柴はそのまま背を向けて、手を振った。  ── なんだろ。何かありそう。  隼人はそう頭の中で呟いたが、深く詮索することをやめにした。  元来、考え事をするのはあまり好きではない。  隼人がいつも使っているホームに向かって歩き出そうとした時、通路の端っこから羽柴が大声で訊いてきた。 「お前、明日どうしてんの?! 病院か!!」  その台詞に隼人は呆れる。  また振り返って、怒鳴りつけてやった。 「明日はアンタが帰る日でしょうが!! ちゃんと空港まで見送るよ!!」  羽柴は、「あ」と納得した表情を浮かべ、「明日携帯へ電話かける」というジェスチャーをして見せた。 「 ── まったく・・・」  しっかりしてそうで、抜けてたりするんだから・・・。  そう思うと、ふいに隼人はおかしくなって笑った。  真一が、よくそんなことを口にしていたことを思い出して。
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