あの日

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あの日

 梅雨の湿気でジメジメとワイシャツが肌に着く、頭の上では鬱陶しい太陽を隠すように灰色の雲が空を埋めようとしている。天気予報によると夜から朝に掛けて雨が降ると言っていたが、面接は幾ら長くかかっても昼過ぎには終わるだろう。  滅多に着ないワイシャツの風通し悪さ、朝まで遊び重たい瞼と、コンディションは悪い。朝一での面接、用意する時間も少なく、寝癖を直すのが精一杯、早歩きで電車に乗り込み、一息つく。電車の中は快適である。  都会の通勤組は朝から戦っているのだと聞いたことが有る。下手をすると圧迫死するぞと言っていたが、どうなのだろう。他にも学生時代仲良くしていた友人の中には、東京で痴漢にあったと悔しそうに話していた者もいた程だ。  人の殆ど乗っていない電車にゆったりと座る。冷房で車内の天井広告がユラユラと動く様子を見て、風鈴にすればいいのにと平和な事を考えている。僅か二駅、時間にして六分ほどで目的駅にたどり着き、早歩きで進んだ。  履歴書を持ち、喫茶店に向った事は初めての経験である。  休日に友人と待ち合わせに使う事、無駄話をする場として利用する事は多い方だと思うが、そこに履歴書を持ち出かけた事は無い、喫茶店でアルバイトの募集こそ良く見るが、今回はそうでも無い。ただ面接と言う点で言えば、面接を受けに喫茶店に来たのではある。  指定された丸いテーブル。  テーブルには、アイスコーヒーが一つ置かれていて、水滴も無く綺麗である。ここの店は氷が多く、時々星やハート型の氷が浮かぶことも在るらしいが、テーブルの上のコップにはハートは入っていない。普通の氷だけである。 開いたままのノートパソコンには、ワードアートで作ったようこその文字、この席で間違いないらしい。  喫煙側トイレに一番近い丸いテーブルの椅子は事前に電話で座るように指示されていた。パソコンとアイスコーヒーが置いてあるからと、言われたとおりに席に着いたのだった。  パーティと呼ばれる喫茶店、コーヒー一杯が二百円とお手頃価格なこの店は、この街だけでも五店舗以上存在するチェーン店である。決して美味しいコーヒーとは言えないが、値段と広い空間は待ち合わせや時間つぶしには丁度いいと言える。  店内にはBGMも無く、一人読書するにも使いやすい。更には分煙を徹底している為、喫煙者にもそうでない者にとっても優しい。  店員も綺麗に白いシャツの女性と黒いシャツの男性と爽やかで、清潔感のある服装。二人だけでレジを打ち、コーヒーを淹れる姿は、熟練の店員だと想像出来た。  残念な点は煙草を吸わない五百井涙が、呼び出され用意された席に座っている為、浴びたくも無い煙草の煙が髪や洋服に纏わりついてくる事くらいだ。 「暑いな、何か飲むか」  立ち上がろうとし、思い留まる。  これから面接をされると言うのに、呑気にコーヒーを飲んでいて良いのだろうか、自分が面接官ならばそんな奴落としたくなるが、目の前に置かれたアイスコーヒーが渇く喉を挑発する。グラスには少しずつ水滴が付き始め、待ち時間がそれだけで分かりそうだ。  トイレにでも行ったのだろうか、それとも最初からこのパソコンを見せようという事だったのだろうか、店内を見渡すもそれらしい人間は居ない。ソレらしさで気が着かれるようならば仕事は務まらないだろうが、どちらにしても、何故隠れているのだろうか。  鞄に入った小説を読んでもいいものか、スマートフォンで時刻を確認するも紛れも無く予定通りの時刻を示していた。
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