あの日

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 五分前に到着する自分を偉いとは思わないが、こうして時間通りに現れない会社はどうなのだろうと考え始めた時、お待たせと男性が現れた。機嫌の良さげな男は、嬉しそうに椅子に座った。 「アレだね、僕は探偵だから解るけれど、君はコーヒーが嫌いだね。オレンジジュースでも買ってくるよ」  名刺をテーブルに置き、席をはなれ、店員と楽しそうに喋りだす姿は見ていて気分のいいもので無い。いっそ帰ろうかとさえ思いながら、名刺に目をやる。置いたという事は、見て欲しいという事だろう。  ナミダ探偵会社 社長 南海雫伊助(なみだいすけ)  赤い名刺の趣味がいいかは分からなかったが、目立つ。南海雫でナミダかと口を尖らせながら頷く。自分の名前は涙と書いてルイと読む事も在り、この会社に縁を感じたのだが、これは本名だろうか。当て字っぽいなぁとスマートフォンで読み仮名を検索する。 「読めなくは無いんだ。これなら自分の方がナミダ探偵っぽいのだけれど」  声に出して言う程に、退屈を持て余していた。オレンジジュースを買うのに何分待たせるのか、そもそもコーヒーが飲みたい。  店員の二人は時々見つめあい、仲が良い事が遠目でも分かった。視力がいい事が自慢、それ以外に誇れることは無い。  それにしても急に客が増えたなぁと思った。探偵は慌てて最後尾に並ぶ。注文もせずに店員とずっと喋っていたらしい。空気の読めない人なのだろう。 窓の外はいつ降ったのか雨が降っている。それも大雨。 カウンターテーブルでいつの間にか座り店員と立ち話を終え座り話になった時点で、もう知らんわと小説を読み始める事を決める。  客の行列も落ち着き、仲の良い二人の店員を邪魔する探偵。大きな声で時折笑い声が聞こえる。ひどい面接だ。 とうとう小説の探偵が犯人を追い詰めトリックを暴こうと屋敷の広間に全員を集めた所で、咳払いが聞えた。 「それ、楽しいのかい」  南海雫伊助は楽しそうに笑っている。気が着くと面接時間から二時間は経っていたのだが、ようやく面接が始まるらしい。 「楽しいですよ。これ履歴書持ってきました」  クリアファイルから取り出し、アイスコーヒーを飲みながら自分の履歴書が睨まれる。オレンジジュースを買いに行った筈だが、ジュースどころか飲み物を買ってこなかった。話すだけ話して、忘れてしまったのだろう。脱水症状で倒れてしまいそうな若者を差し置き、探偵は一気にアイスコーヒーを飲み干した。  余程楽しかったのだろう店員との会話は、喉を潤わせずにはいられなかったと言う所だろうか、一度買ったジュースを飲み干しても足りない程に。 「ふむ、まずどうして俺は君がコーヒーを飲まないと推理したのかを教えよう。なぁに簡単な事さ」  探偵は空になったグラスをカタンとテーブルに置いた。  聞かされたところで推理は違うのだが、自分は既に干し椎茸の様な状況なのだから。推理など聞きたくは無い。更には、コーヒー好きである。 「簡単な事と言ったけれど、こうして探偵を名乗る俺でなければ、難しいだろうな。おそらく今の君では、推理出来まい一応勉強の為、参考書代わりに教えてあげようじゃないかと思うのだよ。全国津々浦々あれど、面接に来た者の好みまで把握してしまう探偵は少ないんじゃないのかな。そんな自分を敢えて名探偵とは言わず探偵と謙遜出来る俺だからこそ、こうして、オレンジジュースを、ああぁ、飲んじゃったよ」  推理が始まらない苛立ちよりも、ジュースを思い出してくれた事が嬉しい。こんな面接来なければ良かったと素直に反省し始めた。  志望動機に大きな理由も無く、ただただナミダ探偵と素敵なネームセンスに惹かれただけなのだ、他にもアットホームな職場だとか、学歴不当だとか、資格無し歓迎と魅力あふれる文字が連なってさえいなければこんな面接にはいかない。  中でも一番惹かれた所は、面接の交通費として五千円と言う理由なのだが、そこを一番に述べると自分が金に汚い奴に見られそうなので後回しにしている。
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