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見るともなしに車内に視線を投げる。まばらにいる乗客でこちらを見ている者は誰一人いない。電車内で通話するべからずというマナーを守らない若者など、珍しくはないのだろう。
「……緋凪君?」
直後、不意に声を掛けられて、緋凪はビクリと身体を震わせた。
反射で向けた視線の先には、見覚えのある男が立っている。
「緋凪君だよね? 俺のこと、覚えてる?」
問われて、彼から距離を取ろうと、気持ち後退る。一度だけ会ったことのある――確か、楠井翔太という名だった。
「父さんの……」
小さく口に乗せると、楠井はパッと破顔した。
「そうだよ! 楠井翔太! ああよかった、覚えててくれたんだね。そう、一度だけ会ったよね、話はしてないけど」
楠井は、ごく親しい人間の近付く距離まで緋凪に歩み寄る。
ドアのすぐ脇に陣取っていた緋凪は、それ以上足を引けない。だが、警戒心一杯に、顎を引いて相手を見上げた。
「……あんたはあれから小谷瀬の狗になったんだろ。今更何の用だよ」
すると、楠井は困ったように眉尻を下げた。
「お父さんから聞いてないかな。俺はあれから考え直したんだ。これから市ノ瀬春日さんの件についての裁判を一緒に戦う予定なんだよ」
「え?」
緋凪は目を瞬く。
「じゃあ、父さんの言ってた味方してくれる弁護士って」
「俺のことだ」
「でも、あんた確か妻子の為に狗になるって決めたんじゃ」
「……正義から目をそらしたほうが後悔する。だから……妻とは離婚したんだ」
「……たった一つの裁判の為に?」
「一つじゃない。今後続く裁判の為でもある。これからことあるごとに、周りの人たちの為に脅迫に屈してたら、弁護士で居続けられないし……小谷瀬の顧問になるってことは悪事に手を貸すってことだ。そう思うと……やり切れなくてね」
楠井は、自嘲気味に苦笑した。
「だから、身軽になることにしたんだ」
「身軽ねぇ……両親が標的になったらどーする気だ?」
「両親はもういないからね。幸か不幸か」
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