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(楠井?)
あの男は、妻子が質に取られたと言って、半ば半狂乱で緋凪を警察へ連れて行こうとしていた。あのまま大人しく引っ込む訳はないとは思っていたが、まさかこういう手段に出るとは。
「……あんた、楠井とはどういう関係?」
振り返ることを許されそうにない空気に、緋凪はまだ相手の顔も確認していない。
しかし、男はにべもなかった。
「お前が知る必要はない。俺がいいと言うまで口を閉じてろ」
言い終えるなり、男は脇腹に押し当てた凶器を、緋凪の身体に食い込ませた。
身体を強張らせ、男から見えない角度にある顔を歪める。怖いか怖くないかで言えば、今最高潮に怖い。
春日が亡くなってから裏社会へ足を踏み入れ、およそ九ヶ月ほどの間、その技術を叩き込まれては来たものの、実際にそこの住人と命のやり取りをしたことはない。いつも相手にしてきた不良少年たちとは、根本的に種類が違う相手だ。
怖い、この男を押し退けて今すぐここを離れたい、というより脇腹にあるだろう物騒なものを退けて欲しい、それさえ退けてくれたら何でも言う通りにするから、と喚きたくなるのを必死で堪えた。
暴れるように脈打つ心臓を宥めようと胸元に拳を当てる。ボトムのポケット中で朝霞に繋がったままの回線が、辛うじて緋凪の正気を保たせていた。
(……落ち着け)
今し方、皓樹に向けた言葉を、程なく自分に向けることになるなんて、思ってもみなかった。目を閉じて、深呼吸を繰り返す。
次の駅は、目的の碩水茶屋駅だ。急行だから、停車駅は少ない。時計が見られないので何とも言えないが、走行時間はさほどなかったはずだ。
とにかく、降りたら速攻で駆け出す。それしかない。
脇腹に当てられている武器が銃かナイフかは分からないが、標的に突然駆け出されたら相手もいくらかは動揺するだろう。銃ならいきなり人混みで発砲する訳にもいかないし、ナイフなら近接武器だ。離れた相手をどうにかしようと思ったら、投げる以外に手段はない。
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