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自覚してしまえば唐突過ぎて、一層のこと勘違いであれば良いと願ったこともあった。
でも急激に育ってしまったその感情の名前を知らないほど、僕は幼くない。
「本当に大丈夫か?」
しつこく体調を訊ねてくる元凶を疎ましく思いながらも、その声に惹き付けられる。
『大丈夫だってば』
ノートに何度目か書けば、彼はようやく席に戻る。
……この数ヶ月で、席替えによって亮蔵と僕の席は遠く離れた。
最初は心配からか、しょっちゅうこちらをチラチラ見ていた彼だったが最近は僕の隣の席の女子も筆談に付き合ってくれるおかげで、彼も安心したようだ。
少し前までいちいちこちらを振り向かれて鬱陶しく感じていたのに、今度は何故か少し寂しいのだから僕って奴は本当に自己中心的性格なんだろう。
「ごめん。橘君、アタシ教科書忘れちゃって……見せてくれる?」
隣の女子がすまなそうに申し出てきて、僕としては別に断る理由もないから。
『いいよ』
という文字と笑顔で開いた教科書を彼女の方に半分差し出した。
「ありがとう」
嬉しそうに微笑み、礼を言われるってなんだか擽ったくて嬉しい。
彼が来てから、僕は笑顔というものを得た。喋れなくなってから俯き目を伏せていたけど、次第に彼に接するのと同じように目を開き口角を上げて笑顔を作る術を思い出したのだ。
それも彼に感謝しなければならないだろう。
今まで腫れ物だった僕にも、少ないなりに手助けして話しかけてくれるクラスメイトも出てきたのだから。
「……橘君って、優しいね」
―――ふと呟かれた言葉に、僕は視線を上げる。
「無理して喋らなくていいから。橘君の味方は案外沢山いるんだよ」
綺麗に編み込まれた髪の後れ毛を手で弄りながら、彼女は小声で言った。
「これ、アタシのおすすめ……一度読んでみてよ」
そっと机の下から何やら差し出され膝に当たる。
(ん、本?)
文庫本だ。厚みはそんなにない。そう言えば彼女は図書委員会だったっけ。
「今度、図書館おいでね。図書館なら……」
喋らなくても良い場所だから、と言葉にせずとも理解できた。
そして彼女の優しさと、恥じらい。
素知らぬ顔して黒板を見つめるその白い頬は薄ら桃色に染まって、口元は何かを堪えるように引き締められている。
『ありがとう。読んでみるね。図書館も今度』
それだけ書いた紙を、そっと彼女の机の上で握った拳の上に置く。
「橘君……」
僕はこの優しい隣人の親切に精一杯微笑んでみせた。それが僕の唯一返せる言葉であると信じて。
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