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もみじ
―――学校へ行こうと一歩外に出るだけで、僕の口は言葉を紡ぐのをたちどころにやめてしまう。
喉が張り付いてしまったように、声が出せなくなるからだ。
教室に入ると僕は完全に貝のように押し黙る。別にそうしたくてなったわけじゃない。僕だって本当は皆とお喋りしたいんだ。
「侑李(ゆうり)、行こう」
双子の姉、侑花(ゆうか)がそっと僕の手を引く。
それにただ頷き無言で歩き出すが、そんな僕を責めないでいてくれるのは彼女だけだ。
―――僕、橘 侑李(たちばな ゆうり)は喋る事が出来ない。
ただし家から一歩出ると、だけど。
僕は病気で『場面緘黙症』なんだって少し前に連れていかれた病院で言われた。
外から家の玄関へ入ると、途端に言葉が声帯から溢れてくるかららしい。外ではまるでなにかにせき止められているかのように、声を出すことすら出来ないのに。
「ほら侑李、遅れちゃうよ」
その言葉に急かされて足をほんの少し早める。
同じ日に産まれて同じ家で育ってきたのに、僕と姉はこんなに違う。
明るくて優しくてスポーツ万能な彼女と、引っ込み思案で身体も弱く貧弱な僕。
劣等感を感じるなと言う方が無理な話だが、何しろ侑花はそんな僕を守るように日々接してくれているから何も言えない。
「侑李、今日そっちのクラス体育あるの?」
「……」
「そう。あ。そう言えば音楽の香椎(かしい)先生、今度結婚するんだって」
「……」
「あー、眠いねぇ」
「……」
(そんなに無理して話しかけないでよ)
僕はそっと視線を外してため息をついた。
答えられない申し訳なさと、少しの苛立ちと……更に沸き起こる罪悪感。
(あ)
……視線を外した先、そこは河川。
派手に上がった水飛沫。
その真ん中で必死に両手を上げ水を掻く動き。
僕は目を凝らす。
(人だ! 人が……)
溺れている。確かにそれは人だ。
上げた両腕が徐々に沈み水面に引き込まれていくのが分る。
僕は反射的に侑花の手を振り払い、そのまま河川敷に駆け下りた。
「侑李っ!?」
彼女の声を背中に受けても僕は走った。
両脚を必死で前に前に駆け出して、転がり落ちるように前のめりに。
風のように、と言うよりは少しばかりのろまだったかもしれないけれど。
それでも手を伸ばし、ぶつかっていくように。
朝の澄んだ空気を肺に思い切り吸い込んで―――。
「侑李ぃぃぃッ!」
侑花の叫び声を聞いたのは、水面に身体が触れた瞬間。
さらに自らが立てた飛沫の音の後に広がる、鈍くくぐもった水の世界。
目を閉じることなく見たその水中に、手を伸ばして探すあの両腕を―――。
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